リデル・ボンボン・オ・ショコラの生涯 3

「おじきはどうしているだろう。もう、僕たちがいなくなったことに気がついているはずだけど」
 夜も更けてベッドに潜り込むと、ステンドグラスのランプのみを灯した薄明かりの下、リデルは心許なさそうに呟いた。その声音がいかにも寒々しく響いた気がして、ノワゼはまじまじと、傍らに寄り添うリデルを見つめた。
 リデルは叔父との生活に窮屈していた。それでも、血の繋がったたった一人の肉親が、やはり気がかりではあるのだろう。
「捜索願いでも出されていれば、そこそこ大きく報道はされるだろうな。まあ、書き置きは残してきたし、あの方がそんなに事を大きくしたがるとも思えないが」
 ふと気がついて、ノワゼは眉根を寄せた。
「そういえば、今日は新聞屋が来なかったな。ラジオも聴いていない」
「明日になれば、この地区の鳩が僕たちを見つけるさ。新聞屋の鳩は賢いからね。誰に教わることもなく、人の気配を嗅ぎつけることができる。だけど今日はもう眠ろう、ノワゼ。僕はなんだか疲れてしまった」
「そうだな」
 かつて、幼かったリデルを寝かしつけるためにそうしたように、シーツの上にしどけなく散った金糸を、ノワゼは注意深く梳(と)いた。するとどんなに寝つきの悪い夜でも、リデルは不思議と円滑に眠りの世界に落ちることができるのだった。指の間を水のようにさらさらとすり抜けていく感触は、ノワゼにとってもまた、噎(むせ)ぶような感慨をもたらすものだった。
 ボンボン・オ・ショコラ夫妻が他界し、リデルが叔父の元に引き取られて以来、ノワゼがリデルを寝かしつけてやることは絶えて久しかった。猶子が使用人に添われて眠ることを、生真面目な叔父は決して許さなかった。
 男の無骨な指に誘(いざな)われて、リデルはしきりに眠たげな目をしばたかせている。目を伏せると、瞼のふちをびっしりと覆う、長い睫毛の一本一本を目視することができ、リデルという子供の造形が、細部に至るまで非常に美しくできていることがわかる。
 生まれながらにして、リデルは特別な子供だった。リデルもまた、そのことを自覚していた。しかしリデルは必ずしも、それが生きていく上で望ましいことだとは考えていなかった。今はあどけなく眠りの際を彷徨う小さな主君を、ノワゼは愛おしく、哀れに思った。
「ノワゼ。父上と母上が僕にお菓子の家と、お前という特別な贈り物をしてくれた日のことを、覚えているかい?」
 もう幾許もせずに、眠りに意識を沈み込ませてしまいそうに思われたリデルは、しかしふと目を見開くと、首を傾げてノワゼを見上げた。
「勿論、覚えているさ」
 ノワゼは微笑した。あんなに喜ばしい日のことを、忘れるはずがない。
「恐れ多くもあったが、とても嬉しかった」
「そう。あの日ようやく、お前は僕だけの家臣となったんだ。ボンボン・オ・ショコラ家ではなく、僕個人の有する使用人にね」
 お菓子の家は、リデルの七つの誕生日に向けて、夫妻が密かに計画し、秘密裏に築き上げさせた建物だった。その頃、ノワゼはボンボン・オ・ショコラ家の使用人としては最年少の十五歳だった。まだ黒衣に身を包んではおらず、他の多くの使用人と同じように、雇い主から宛てがわれたモスグリーンの仕着せを着用していた。しかしその当時から、リデルは既にノワゼを見出し、何かにつけては彼を目にかけた。ノワゼもまた、自分を慕う小さなリデルに、使用人としての忠義を超越した慈しみを抱(いだ)いた。
 いつの頃からか二人の間に粛々と交わされるようになった貞淑ないたわりに、夫妻はとうに気がついていた。互いの立場から私的に心を通わせることは困難に思われた二人が、どうにかして共にいられるようにと、当時の本邸の防護のために植林された防潮林の一角に、リデルのための秘密基地を構え、ノワゼを傅として、リデルの最も近くに仕えさせることにした。
「ノワゼ。お前を僕のそばに仕えさせたのは父上の意向だけれど、あの頃は父の屋敷にたくさんいた使用人の中から、お前を見つけ出したのは僕なんだよ。ノワゼはいつだってとても優しかったし、お前の色はとても美しかったからね」
「……色?」
 リデルの言わんとしていることを計り兼ねて、ノワゼは困惑した面持ちになった。リデルはうっとりとノワゼを見つめている。鮮やかな菫色に、ノワゼは吸い込まれそうな錯覚を覚える。
「ノワゼの眸は綺麗な色をしているよね。虹彩の、中心に近い部分が琥珀色で……ふちは海松色(みるいろ)だろうか。何より僕が好ましく思ったのは、その濡羽のように艶(あで)やかな漆黒」
「ありふれた色だ」
 容姿を褒められることに不慣れなノワゼは、にわかに狼狽して視線を彷徨わせた。
「リデルの菫色の眸の方が、余程稀有で美しい。それに黒なんて、あまり好いイメージのある色でもないだろう」
「だけど僕にはない色だ」
 リデルはきっぱりと言い切った。髪を撫でるノワゼの手は、リデルの言葉に気を取られ、ゆるやかに減速しつつある。
「それに、そういうことじゃないんだよ。僕が言いたいのは、例えばお前がその肉体に深々と闇を刻み込んでいたとしても、そばにいてほしいと、僕が願ったってことなんだ」
「……お前の言うことは難しいな」
 ノワゼは手を止め、謎かけにも似た言葉の意味を解そうと、思慮に耽ってしまった。眉根を寄せた表情と、元々の目つきのきつさが相まって、そうしていると彼は随分気難しい人間のように見えた。
「難しいことじゃあない。つまり、僕がお前を好きってことさ」
 冗談めかしてはぐらかすと、リデルはやにわに寝返りを打った。体ごとノワゼに向き直り、眉間に深く刻み込まれた強張りを、指先で丁寧になぞることによって解(ほど)いてやった。
「ねえ、ノワゼ」
 眉間に触れたまま、リデルは密事のように囁いた。
「僕は呪われた子供なんだ」
 ノワゼは目を剥いた。温度の低い指が肌の上を滑り、離れていく。不思議な引力を備えた眸は、まじろぎもせず、ノワゼを凝視している。二つの菫色に囚われて、ノワゼはその場に縫い付けられたかのように動けなくなってしまう。澄明な眼差しに、全てを見透かされているような気がする。一方で、感情と名のつくありとあらゆるものを削ぎ落としたリデルの表情から、ノワゼは何一つとして読み取ることは叶わない。
「いつか、その呪いがお前に牙を剥く日が来るとしても、ノワゼ、お前は僕のそばにいてくれるかい?」
「……わかりきったことを」
 ノワゼは喘ぐように息をついた。
「俺はリデルにならば、殺されたって構わない」
「ありがとう」
 薔薇色の唇が三日月型の弧を描き、リデルはにこりと笑った。整い過ぎた微笑はいっそ白々しく、刹那、リデルが表面ばかり精巧に造られた、がらんどうの人の紛い物のように思われて、ノワゼは正体のわからない不安に襲われた。
 つと、リデルが目を伏せた。何かを憂えるかのような独白が、いつまでも耳にこびり付いて、離れなかった。
「そうだね。僕もノワゼに殺されるなら、この命など少しも惜しくはないよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?