アルマイトの海で眠る 5

 土日を跨いで週明け、朝も早くから来客を知らせるチャイムが響き渡るのに跳ね起きる。こわごわドアスコープを覗いて、私は驚きのあまり、胸に抱え込んだアルマイト鍋を取り落としそうになった。なんとそこには、見慣れたスーツ姿の上司と先輩が、やけに神妙な面持ちで、佇んでいたのだ。
 あのあとも、会社から何度も入る連絡に、結局一度も私が応じることはなかった。それでとうとう、私の身の上に何か災厄が降りかかったんじゃないかと、心配して様子を見にきてくれたんだろう。幸か不幸か、会社から私の住むアパートまでは、電車に乗って一駅乗れば、歩いて五分とかからない。警察に通報されなかっただけ、まだましだったと考えるべきなのかもしれない。
 私は急いで最低限の身なりを整えると──気の抜けた寝巻き姿のままで上司や先輩の前に立つのは、いくらなんでも気が引けたのだ──化粧もしないまま、安っぽいゴムサンダルを突っかけて玄関ドアを開け放った。
 数日ぶりに胸の内を満たす外の空気は清々しく、世界はどこまでも広く、明るかった。あまりの眩しさに、私は目の前にチカリと星の飛ぶのを見て取り、軽い立ち眩みを起こす。目の前の二人は、自分たちの方から訪ねてきたくせに、私が出ていくと何故か途方に暮れたような顔をして、どちらともなく視線を交わし合った。
「ええっと、その……香住君。久しぶりだね」
 まずは年配の上司が、目をしぱしぱと瞬かせながらそう言った。上司は小柄で、白髪で、額も既に随分後退しているが、清潔感のある初老の男性だ。
「お久しぶりです。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
 しおしおとしょぼくれて、いつもより一回りも二回りも小さく見える上司の姿を見たら、私は心底申し訳なくなって、深々と頭を下げた。今にもはだけそうな胸にはアルマイト鍋を、お守りのように抱き締めたままだった。上司は、私が何の変哲もない鍋を、さも大事そうに抱え込んでいるという事実から、必死に目を逸らそうとしているらしだったが、ちらちらと視線が鍋の方に流れてしまっているのを、私ははっきりと感じ取ることができた。
「気にしないで。葉子ちゃんが無事なら、それが何よりの果報だよ。でも、顔色が優れないね。ご飯はちゃんと食べてる?葉子ちゃんともあろう人が、一体どうして急に会社を無断欠勤しようなんて思い立ったんだい?もしよかったら、少し話を聞かせてくれないかな?今、話せることだけで、構わないから」
 一方の先輩はと言うと、できる限り気遣わしげな風情を装ってはいるが、今は明らかに、私の抱え込んでいるただ一つの鍋に、興味津々だ。この人はきっと、会社に戻ったら嬉々として私とアルマイト鍋のことを周囲に吹聴して回るに違いないと、私は確信した。そのくらい、先輩は滲み出る好奇心を、隠しきれずにそこにいた。
 何も先輩が特別に他より悪い人間だとか、そういうわけではない。私とさほど年の差はないけれど、業績に優れ、頼り甲斐があり、人当たりもいい好青年で、女性社員からも人気がある。だが人間とは所詮そういう生き物なのだ。完璧だったはずの人間の失墜だなどと、そんな面白そうな話があれば、誰だって興味を示さずにはいられない。上司だってそういう気持ちが少しもないかといえばそんなことはないだろうし、私だって、これが自分のことでなければ、表向きは心配するような素振りをして、果たしてどんな事情があって鍋を抱き締める羽目になっているのか、探りを入れていたことだろう。先輩を責める権利など、私には決してありはしない。
「……あの、」
「うん?」
 おずおずと切り出した私に、先輩は優しい語調で続きを促した。視線は、腕の中の鍋に釘付けになったままだった。
「会社を、辞めたいんです」
 私を除いた二人が、はっと短く息を飲むのがわかり、辺りにはなんともいえず気まずい沈黙が訪れた。アパートの面した通りを、宅配便のトラックや、幼い子供を連れたお母さんが通りすがる音、それから町を飛び交う小鳥たちの囀りが、やけにのどかに響いていた。それなのに、互いの息遣いや鼓動までもが聞こえてしまいそうな張り詰めた静寂が、今や私たちのあいだにはあるのだった。
「……葉子ちゃん、」
 暫くして、沈黙を破ったのは、やはり先輩だった。先輩は、もはや私の腕の中のものへの好奇を少しも隠そうともせず、吸い込まれそうに不思議な瞳でじっと、私の、大切な、飴色のアルマイト鍋を見つめていた。
「その……さっきから手に持っている鍋、なんだけれど、それは一体君にとっての何なのか、聞かせて貰っても、構わないかな」
 先輩はとても、注意深く言葉を選んでいるように見えた。私はどう答えたものかと少し迷い、しかしうそをつくのは先輩に対しても彼に大しても失礼だと考え、正直に、ありのままの事実を答えた。
「彼は私の恋人です」
 ピシリと音を立てて、張り詰めていた空気が砕け散った。

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