ヴァルプルギスの魔法使いたち 4

 一方、霧の村では、今朝方一人の人間の男が村の関所を訪れ、赤髭の衛兵にこっ酷く追い返されたという話題で持ちきりでした。衛兵は、力の強さや体格のよさだけではなく、おしゃべりで軟派な男であることでも有名でしたから、閉ざされた村においては、噂はあっという間に広まりました。赤髭の衛兵は、自分が客人たちに仕向けたさまざまな非道な仕打ちを、まるでそれが武勇伝であるかのように自慢げに、声も高らかに語るのです。そして村人たちも、そんな彼の行いを褒め称え、英雄のように祭り上げるのでした。みんな代わり映えのしない霧の村での生活に退屈して、刺激を求めていたのです。霧の村では大人も子供も分け隔てなく、他人の不幸が最高の娯楽で、そうした昏い悦びをもたらしてくれる者こそが、絶対的な正義であってほかならないのでした。
 サラの通う、村に一つきりの学校でも、生徒たちの関心はその目新しいニュース一点張りで、みんなが興奮した様子で、互いに持ち得た情報を引き出し合い、各々が勝手な憶測をしては、ああでもないこうでもないと不毛な話し合いの真っ最中なのでした。サラはそうしたあけすけな好奇や卑しい愉悦を嫌って、自らが話題に興じることは決してありませんでしたが、黙っていてもみんなの話す内容は、嫌が応にも耳に入ってくるのです。
 断片的に聞こえてくる会話の内容から事のあらましを知ったサラは、不吉な予感で胸がいっぱいになりました。その人間の男が、顔は爛れ背中は曲がったとても醜い容姿をしていて、更には人間のくせに、魔女や魔法使いのように白いフクロウを連れていたと、もっぱらの噂だったからです。
 学校が終わると、サラは急いで家に帰り、万が一にもジークフリート伯父さんから手紙が届いていないかどうか、家中を探しまわりました。霧の村の規律が大変に厳格で、よそ者は一歩も通ることができないということは、伯父さんも知っているはずでしたから、関所を訪れたのが本当にジークフリート伯父さんその人であるとすれば、自分に何も連絡を寄越してきていないはずはないと考えたのです。サラが眠っているうちにアルデバランがその働きぶりを見せてくれたことはこれまでにも数多ありましたから、サラが気づかず、何かの拍子に大事な手紙をうっかりどこかに紛れ込ませてしまった可能性も、ないと言いきれる話ではありません。あるいは伯父さんが村の関所を訪れたのが今朝方であるのなら、その規律の想像以上の厳しさを身をもって知って、これから手紙を書いて寄越すかもしれません。サラはアルデバランがいつやってきても入ってこられるように家じゅうの窓を開け放つと、机の裏側やベッドの下、教科書のページの隅々まで、手紙を探しまわりました。けれどもいくら探しても手紙は見つからず、アルデバランがサラの元を訪れることもありませんでした。
 家中探しまわったので、小さなサラはすっかり疲れてしまいました。サラは苔桃のジュースで、ひと休みすることにしました。
 やはり村を訪れたのは、伯父さんではなかったのでしょうか。自分のしていることは、全部無駄なことなのでしょうか。噂を耳にしたときには半ば確信めいた予感を得たのに、時が経つに連れてその自信はどんどん揺らいで、不確かなものとなっていくのです。苔桃のジュースのグラスを片手に、ダイニングチェアに腰をおろして、ひんやりと冷たいその飲み口に唇をつけて、サラはふと、頭上のランプに何か白っぽいものが引っかかっているのを見つけました。それはきれいなステンドグラスのシェードランプで、サラが気に入って、ダイニングチェアに腰かけてはしばしばうっとりと眺めているものでしたから、そんなものが引っかかっていれば、気がつかないはずはありませんでした。
 数日前にはなかったはずです。サラはグラスをテーブルに置くと、ダイニングチェアの上に立ち、背伸びをして、引っかかっているものを指先で摘まんで取りました。
 それは真っ白な、鳥の羽でした。
 そのことを見て取ると、サラはザッと体じゅうから血の気が引き、目の前が、暗くなるような思いがしました。最悪の事態がサラの脳裏をよぎりました。サラは急いでダイニングチェアから飛び降りると、勝手口のドアを開け放ちました。そこはユーリアがいつも、収集屋が持って行く前のゴミの麻袋を、ひとまとめにして置いておく場所でした。サラはそれらをひとつひとつひも解き、中を覗き込んでいきました。きつく縛られた口をほどくのが、もどかしくてたまりませんでした。服や肌に汚れがついても、サラは気にしませんでした。そしてとうとう、見つけてしまったのです。サラは深くうな垂れ、目を皿のようにして、呆然と、それを見つめておりました。
 玄関の方で物音がしました。ユーリアが、帰ってきたのです。
 ユーリアは魔女の奥さんたちと、お茶をしてきた帰りでした。奥さんたちの話の種は勿論、赤髭の衛兵に手酷く追い返された醜い人間の男のことでした。ユーリアは今朝になって、村中がその話題で持ちきりなのを知って、赤髭の衛兵の口の軽さを心底恨めしく思いましたが、渦中の人物がバルシュミーデ家の人間であるということはどうやら広まっていないようなのでひと安心し、その男が本当は自分の夫の兄であるのだということは、決して口にはしませんでした。そんな醜い男が身内にいると知られるだけでも、自尊心の高いユーリアには耐え難いことでしたし、霧の村の住人たちはみんな、ハイエナのように他人の下世話な話を求めておりましたから、どんな秘密も一度口にしたら最後、あっという間に村じゅうに広まってしまうのです。そうなれば、どんなに隠し通そうとしても、噂がサラの耳に入ってしまうことは必至でした。ユーリアは一人娘のサラをとても愛しておりましたから、伯父さんが村に入れないように手はずを整えていたことをサラに知られでもして、サラに拒絶されることが、実に勝手なことにとても怖かったのです。
 一歩家に足を踏み入れて、玄関に乱雑に放り出されたサラの鞄と、家じゅうの開け放たれた窓やドアを見て、ユーリアは顔をしかめました。世の中には薄汚れた場所を好んで住まう魔女や魔法使いもおりますが、ユーリアはいっそ病的なまでに綺麗好きの魔女で、だらしないことやきたならしいことが、この世で一番嫌いなものの一つなのでした。
「サラ、帰っているの?家に帰ってきたなら鞄はすぐに自分の部屋に持って行ってちょうだい、それからドアや窓をこんなに開けていないで。虫が入ったらどうするの──、」
 つらつらと文句を並べ立てながら開け放たれたままのダイニングを覗き込んで、ユーリアは絶句しました。サラが勝手口のドアのところでしゃがみ込み、おとついの夜しっかりと口を閉じたはずの麻袋の中身を、じっと覗き込んでいるではありませんか。
「母さん、これは何?」
 麻袋の中から、たくさんの白い羽を両手ですくい上げてこぼれ落としながら、サラは震える声で尋ねました。
「ああ、サラ、それはね」
 しどろもどろになりながら、ユーリアは言いました。
「おとつい、窓を開けて掃除をしていたら、鳩が入ってきてしまって、追い出すのが大変だったのよ。とても綺麗な、白い鳩だったわ」
 勿論、そんな言い訳がサラに通用するはずもありませんでした。
「母さんは、窓から虫が入ってくるのを嫌がって、いつもちょっとしか窓を開けないでしょう。鳩なんか、入ってくるはずがないわ」
「ああ、そうだったかしら、そうだったかしら……」
 ユーリアは視線を宙に泳がせ、なんとかうまいことこの場をやり過ごせる言い訳はないものかと懸命に考えましたが、サラはユーリアの方を見向きもせず、麻袋の中身に視線を落としたまま、何もかもがもう、手遅れなのでした。
「アルデバランが来たのね。ジークフリート伯父さんの手紙を持って。そして母さんはその手紙を、焼き捨ててしまったのね」
 サラは真っ黒の燃えかすとなって、もう少しも読むことは叶わない手紙の断片を、ひとつひとつ丁寧に拾い始めました。そうするそばから、燃えかすは灰となって、ばらばらと崩れ落ちていくのでした。サラはどうにか拾い集めることのできた燃えかすや灰を、両手で大事そうに胸元に包み抱きました。集められるだけ集めてしまうと、ようやく立ち上がり、顔はうつむけたまま、ゆっくりとユーリアの方に向き直りました。
「ねえ、母さん。さっき、おとついって言ったわね。母さんは伯父さんが霧の村に向かっていることを、前もって知っていたんでしょう?今日、みんなが話していたわ。白いフクロウを連れた人間の男の人を、衛兵さんが手酷く追い払ったって。今ごろその人は、熱病にうなされているに違いないって。伯父さんは、どうして村に入れなかったの。母さんは伯父さんに、何をしたの」
「ええ、そうよ、アルデバランが来たのよ。あの醜い男の遣わした、アルデバランが!」
 ユーリアはもうやけになってそう叫びました。
「すぐに関所に連絡を入れたわ。じきにやってくるジークフリート・バルシュミーデって醜い男を、決して村の中に通さないようにってね!」
 サラは目に涙を浮かべてユーリアを見上げると、震えながら首を横に振りました。
「酷い。どうしてそんなことをしたの?どうして伯父さんにちゃんと瘴気払いの魔法をかけて、関所を通れるように、手はずを整えてあげなかったの?」
「あの男が醜いからよ!嫌いだからよ!」
「母さんはただのわがままだわ!」
 今までに聞いたこともないようなサラの悲痛な叫びに、ユーリアははっと我に返りました。サラの敵意が全て自分に向かっていることを知ると、途端に狼狽えて、どうしたらいいのかわからなくなりました。ユーリアはふらふらと覚束ない足どりで、サラに近づきました。サラは尋常ではないユーリアの様子に怯えて後ずさりましたが、ユーリアは構わず、半ばすがりつくようにしてサラを抱きしめ、小さな頭蓋の丸みを撫で、柔らかな髪を梳き、耳元で、甘ったるい猫撫で声で囁きかけました。
「サラ、あんたは気づいてなかったんでしょうけど、あの男はサラのことを、いつも卑しい視線で犯していたわ。あの男──義兄さんが醜いのは確かにかわいそうなことだけれど、母さんはサラを守るために、こうするしかなかったの。母さんはだから、あの男が嫌いだったのよ。醜いからじゃないわ。そう、あの男が汚かったからよ!」
「なんてことを言うの!」
 ユーリアの腕の中で身を固くしていたサラは、とうとう耐え兼ねて、躊躇なくその腕を振り払いました。誰かにそんな乱暴を働いたのは、生まれてこの方はじめてのことでした。サラは怒りに蒼褪めた顔をして、それでもキッとユーリアを睨みつけました。
「母さんは本当に魔女だわ。性根の腐った、恐ろしい魔女に違いないわ」
 サラはきっぱりとそう言いました。最愛の娘からの明白な拒絶に、ユーリアはもう今にも泣き出しそうにおろおろとして、行き場をなくした手を彷徨わせました。その様子はまるで、親とはぐれた小さな子供のようでした。魔女である以前にユーリアは人の子の親で、サラはその娘であるに違いないのに、サラへの愛に寄りかかり、溺れているのは、ユーリアの方なのでした。
「サラ、母さんに向かってなんてことを言うの。そんなにあの、醜い男がいいと言うの。母さんよりも?」
「いいえ、伯父さんはとっても綺麗な人よ。ずっとビー玉越しに空を見つめ続けている、少年みたいな目をした人よ。だって伯父さんは、伯父さんの姿を醜いと言って侮辱する人たちを、母さんのことだって、憎んではいなかったんですもの。伯父さんよりも母さんの心の方が、よほど醜いわ。私、そんな母さんなんて大嫌い!」
 サラはそう叫ぶと、わっと泣き出して、もうあとを返り見もせずに、二階の自分の部屋に駆けていってしまいました。残されたユーリアは呆然と、今にも気を失ってしまいそうな顔色をして、サラの行ってしまったダイニングのドアの方を見つめておりました。
「一体、何事だい?サラが随分、大きな声を出していたようだけれど」
 そこへひょっこりと、サラの父親のヴェルナーが顔を出しました。サラがあんまりすごい剣幕で言い募るので誰も気がついておりませんでしたが、ヴェルナーはちょうど仕事を終えて、バルシュミーデ家に帰ってきたのです。ヴェルナーは、村の役場で書類の検閲をする仕事に就いておりました。
「ああ、ヴェルナー」
 ヴェルナーの顔をひと目見るや否や、ユーリアは張り詰めていた糸が切れたように、その場に倒れそうになりました。ヴェルナーは慌てて、妻の体を抱きとめました。
「ユーリア、大丈夫かい?」
 しかしユーリアは、夫の声など耳に入らぬかのように、胸に爪を立ててすがりついてくるのです。
「教えてちょうだい、ヴェルナー。私はそんなに、間違ったことをしたのかしら?」
 妻の悲痛な声に、ヴェルナーは辺りの有り様を改めて眺めました。口の開けられたゴミの麻袋と、大量の白い羽を見ると、妻と娘のあいだに何があったのか、すっかり理解することができました。おとついの夜、妻が何やら騒がしくしていたのは知っていたのです。それに、醜い男の噂はヴェルナーの耳にも入っておりましたから、事の全容に察しをつけるなど、造作もないことでした。
「サラは難しい年頃なのさ」
 妻を優しく抱きしめて、ヴェルナーは宥めるように言いました。
「それにユーリア、人の手紙を勝手に読むのは、あまりいいことじゃあないだろう?」
 夫の返事は、ユーリアを満足させるのに十分なものでした。ユーリアは先ほどまでのしおらしい態度がうそのように、にっこりと顔じゅうを綻ばせて笑いました。
「そうね。これからは、サラの許しを得てから手紙を読むようにするわ」
 サラは泣きじゃくりながら、机の引き出しにしまってあったキャンディーの空き瓶に、拾い集めた手紙の燃えかすを入れて、そっと蓋を閉めました。蓋を閉めてしまうとなおのこと、取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、涙がぽろぽろとサラの白磁の頬を伝いました。
 伯父さんは一体、どんな思いでこの手紙を書いたのでしょうか。岩だらけの山道を何時間もかけて歩いて、やっと霧の村に辿り着いたに違いないのに、関所で手荒な出迎えを受け、きっと逃げるようにその場をあとにして、どれほどみじめだったことでしょうか。サラに、拒絶されたような気がしたかもしれません。裏切られたと思ったもかもしれません。そう考えると、もういても立ってもいられませんでした。伯父さんは、もしかしたらまだ霧の村の近くにいるかもしれないのです。サラは手紙の燃えかすを入れたキャンディーの瓶を引き出しにしまうと、急いで階段を駆け下りました。
「サラ?」
 ダイニングからお父さんの声が聞こえたような気がしましたが、サラは振り返りませんでした。サラはそのまま、家の外へと駆け出しました。

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