逃げろ、立ち向かえ、さあどっちだ
自転車に乗っていて犬に追いかけられたことがある。その犬は、社会的な道徳をわきまえない飼い主が飼っているもので、しばしば放たれていた。
その飼い主は役所や保健所から注意されたりしていたが、それはとりあえず別問題として、とにかく、その犬がやかましく吠えながら私の自転車を追いかけてきた。
私はチョイ悪おやじにもなれない紳士だと自負しているのだが、このときは少々腹が立った。私は急停止して自転車の向きを反転させ、その犬に向かって突進した。犬は驚いて猛烈な勢いで逃げ出した。
小学校低学年のとき、窮鼠猫を噛むといったようなできごとがあった。細かいことは覚えていないが、いつもからかわれていた一人の男子が、あるとき、いきなり猛反撃に転じた。その剣幕はすさまじく、尋常ならざるものであった。
からかっていた男子は恐れおののいて逃げだした。反撃した男子はそれ以後、私が知る限り二度とからかわれることはなかった。
「恐れは逃げると倍になるが、立ち向かえば半分になる」
そう言ったのはイギリスの政治家、ウィンストン・チャーチルだ。イギリスの首相を経験した政治家であると同時に軍人でもあり、ヒトラーのナチス・ドイツに立ち向かって自由主義陣営に勝利をもたらした。
そういう傑物であるから、前述の名言にもなるほどとうなずける。
子供のいじめばかりでなく、おとなの世界でもおとなしくしていると攻撃されることがある。職場はおろか、任意で結成された団体や趣味の愛好会のなかでさえ起こりうる。
いじめたり、執拗に攻撃したりする輩は、私の自転車を追いかけた犬と同じレベルなのだ。弱いとみれば、あるいは逃げるとみれば追いかけ、攻撃する。
「逃げるが勝ち」や「三十六策、走(に)ぐるを上計と為す」(三十六計逃げるに如かずのほうが有名)などという格言もあるように、逃げることにもメリットがあり、場合によっては逃げるのが最善というケースもある。
また、「逃げ逃げ家康は天下を取る」という格言もあるが、これは戦法としての「逃げ」だ。私は家康と世間話をしたことがないからほんとうのことはわからないが、彼はよく逃げていたらしい。
この格言は、家康はよく逃げたが最後には天下を取ったということから、「目先の勝敗にこだわらず、結果的に勝利をおさめればいい」ということを言ったものだ。
こういったことから、「逃げてばかりいると相手を増長させる」「多少のリスクはあっても立ち向かう姿勢が必要」というパターンと、「逃げることも有効」あるいは「逃げるしかない」というパターンがあることがわかる。当たり前だが、どっちを取るかは場合による。
私を追いかけてきた犬は中型犬だったからよかったが、もしも大型犬やどう猛な性格の犬種だったら事情は違っていた。勝ち目がなければ逃げるしかない。
学校でのいじめや大人の社会でのセクハラやパワハラなどがいっこうになくならず、それどころかますます陰湿化、複雑化してとどまらない。
北海道旭川の女子中学生いじめ問題はいまだにくすぶり続け、ジャニー某の異常な性癖による前代未聞の悪行は今後も長く影を引きずることになるだろう。こういったことは氷山の一角で、見えないところで計りしれない問題がうごめいているに違いないのだ。
子供はいじめられても親に言わず(言えず)、一人で耐えているケースがほとんどだ。大人のセクハラ、パワハラも同じで、訴え出る人は少ない。
被害者がまったく無抵抗で相手の言いなりになっているのはよくない。学校や職場では逃げることは困難だが、せめて、なんらかの抵抗する意思を示すことは必要だと思う。からかわれていた男子が反撃したのは好例だ。
「課長、セクハラもほどほどにしてください。私にも我慢の限界がありますから」
そういうひと言だけで効き目があるはずだ。そのひと言を吐いたからといって、左遷されたりクビになったりすることはまずあり得ないだろう。
「先輩、おれがおとなしいからって、いままでずぶんいじめてくれたよな。暴力団にカネを積んででもお礼してやるからな。非合法なんて関係ねえよ」
これでパワハラに終止符を打てるのは確実。でも、いくらなんでもこれはやりすぎか。
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