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五稜郭について

ハコネタラジオ【ネタ14】UP!今回は、函館の話第2弾で五稜郭について話をした。

改めて五稜郭というものを調べてみると、結構知らないことも多いし、面白かった。

まず、五稜郭とはなんのためにあるのかというと、函館の奉行所のためのものだった。元々は、今の元町公園の場所にあった奉行所だったが、函館山の裏から上り、上から攻められる恐れや函館湾から大砲を打ち込まれる恐れがあるということになり、五稜郭を建て、奉行所を移すことになった。

そもそも江戸時代末期に移すことになったが、その時代になぜそういう話になったかというと全国的に鎖国から開港へ向かった時期だったためだ。誰もが知っているペリー来航あたりということだ。それまでは鎖国の状況もあり、攻められることが考えられなかったという、いわゆる平和な江戸時代だった。

ちなみに奉行所ってなんやろ?と思って調べてみると

主君の命を奉じて事を執行する役人の詰所

とある…。けど、よう分からんな…。とりあえず、平安時代から始まったもので、時代の変遷により役割も変わっていたったらしい。江戸時代には町奉行といわれ、地方の行政や立法を担当する役所であったという。昔から変わらないのは、主君の命を奉じて、というところだろう。まあ、封建制度ここにありということになる。

そんな奉行所を防衛の観点から城郭を作り、移設するということで五稜郭になったわけだが、前回も書いたが、戦艦からの大砲が届いちゃうらしい。なんでこんなことになったんかは、詳しくは書かれていなかったのではっきり分からないが、多分、お金のこと、場所をさらに北側に移すと街から離れすぎて使いづらいとか、やはりお上からのお達しがきたんかなと思う。さらに平和ボケしていた江戸時代なので、こんなもんでええやろ、っていう気持ちもあったのかもしれない。形ももう少し設計では違ったらしいし、石垣ももっといい石を使いたかった、なんていう話もあるので、やはり色々うまくはいかなかったのだろう。五稜郭の場所も当時は湿地であまり適していなかったらしい。今でもこの近辺のエリアは地盤が悪く、家を立てるにしてもめちゃくちゃ杭打ちをしなければならない。

五稜郭を設計したのは、武田斐三郎という伊予生まれの人。武田という名前の通り、先祖は甲斐武田氏。幕府の命により箱館奉行所詰めとなり、滞在をしている際にペリーと会談もしている。ペリーからも人物と学識の高さを褒め称えられたそうだ。武田斐三郎は蘭学に精通しており、五稜郭の設計を任されることとなった。ヨーロッパでいくつか設計されていた星型要塞の1つである稜堡式城郭を五稜郭に採用した。

余談だが、函館では西洋風のものがかなり流行り、建物もならではだが、和洋折衷という1階が和風、2階が洋風という建物がかなり建てられた。なんか洋風にかぶれるブームだったんかな〜。

この武田は、五稜郭の設計だけではなく、弁天台場という砲台の設計やなんと日本最初のストーブの設計もしている。長崎にオランダ人が持ち込んだカッヘル式ストーブの実物を見にいき、学び、作ったらしい。稚内や樺太に遠征に行く人たちがめちゃくちゃ寒いから、ということらしい。当時は、囲炉裏、火鉢、炬燵が暖を取る手段で、北国だとやはり心許ない。今でも函館の高田屋嘉兵衛資料館にこれのレプリカがあり、毎年11月に火入れ式を行なっている。コロナで最近はやっていなかった気がするが。

これだけじゃなく、諸術調所という北海道初の学問所という教育機関の教授にもなっている。こういった功績からとにかく頭の良い人という印象がついたそうで、五稜郭公園に飾っている武田斐三郎の碑文の顔の部分がいつもテカテカになっている。何故かというと、顔を撫でると頭が良くなるという言い伝えじみたものがあるからだ。

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話は五稜郭に戻す。現代では見どころの時期は、桜の咲く5月(本州よりだいぶ遅れる)。ここの桜は、ほとんどがソメイヨシノ。少なくとも外周に見える部分は全部だ。これが功を奏して全てが同時に咲くので、壮観である。外から見るのも良し、五稜郭タワーに登って上から見るのも良し。

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これは一見の価値ありだと思う。この桜が毎年キレイに見えるのには訳がある。それは、真冬に活躍する庭師さんのおかげだ。1月2月頃の雪が降る中、五稜郭の桜を剪定してくれる庭師さんたち。桜が眠る頃だからか、あまり人が来ない時期を狙ってなのかは不明だが、めちゃくちゃ危ない場所に梯子を立てて剪定している。雪で滑って堀に落ちないかハラハラしてしまう。そんな庭師さんを横目に通り過ぎるたびに軽く頭を下げて「ありがとう」と呟いている。これも光景として見て欲しいものだ。

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冬の五稜郭もええけどね〜

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五稜郭の完成は江戸末期ということを初めに書いたが、実際に奉行所を五稜郭に移したが、すぐに箱館戦争が起きてしまって、完成後2年で江戸幕府が崩壊した。なんだか戦上にするために作られたような感じになったが、今や観光地と。奉行所というシステムがそもそも封建社会の最たる例みたいなもので、この箱館戦争を機に明治に入っていくタイミングで封建社会の終末となったので、象徴的だったのかもしれない。

須藤隆仙さんの本を読んで勉強したのだが、その中の記述で、

箱館戦争はそこまで歴史上重要視していないという向きもあるそうだが、それは間 違いで、『700年の封建時代終焉を告げるものである。戦史としても大規模な近 代戦の先駆けであり、特に軍艦による大海戦は日本最初のものであった。のちに軍 神と言われた東郷平八郎も三等士官で参戦している。この戦の鎮定により初めて全 国は定まり新政が諸についた』という記述がある。

とある。このことからも今の社会の礎ができた瞬間でもあるといえる。そのまま封建社会が続いていると、もしかしたら独裁者が出てくる未来もあったのかもしれない。今がなんやかんや言うて平和なのはこのおかげともいえる、かも?知らんけど…。

まあ、でも五稜郭を改めて調べる機会になってほんまによかったな。皆さんもお近くの名所で、なんとなく知った気になっているところを掘り下げてみると案外知らない、面白いことが出てくるかもしれんよ。近場を楽しむことが幸福度を上げるにもいいらしいから、ぜひぜひ。

ほなまた。

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