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箱館から函館になってから

明治になり、すぐに函館の名前が定着した。

函館の中心は、函館山の麓エリアが中心となっていた。昔は、市役所、市立病院、丸井今井デパート等々、と所狭しと施設と住居がひしめき合っていた。これは、昭和の話だが、以前にお会いした女性が小さい頃、このあたりに住んでいて、休みの日になるとお父さんと映画館で映画を見て、デパートに行って、カフェに寄る、というのが休みのルーティンだったと言っていた。今や映画館もデパートもない。カフェは最近増えてきているが、昔の函館は東京と人口比で考えると同等の比率でカフェがあり、女性の働き口も多かったという記述もある。

そんな函館で明治期に最も盛り上がっていたのは、大黒通という商店街。今の弁天町あたりになる。今でも名残はあり、八百屋、肉屋、魚屋と集まっている。昔はプラモデル屋かなという雰囲気の店や駄菓子屋、文房具屋、雑貨屋と、当時の繁栄を見てみたい。今あるものは昭和の名残りではあるが、弁天町会館の向かいに大黒湯という立派な構えの銭湯もある。これは明治の建物だ。

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その昔、近隣の問屋の情報交換の場として利用されていた

とある。いわゆる当時のコミュニティだったのだろう。最近は、サラリーマンが一人で風呂に入って、汗とごまかして泣いているという話も聞いたことがあるが…。現在、この銭湯は閉店しているが、いまだに雰囲気のある佇まいをしている。しかし、昔の銭湯には床屋がくっついていることが多い。この大黒湯にも銭湯が併設されている。髪を切ってそのまま風呂という流れが合理的で良かったのかもしれない。この大黒湯が見てきた明治の時代がどうだったのか、その後どういう衰退をしていったのか、詳しく知りたいものだ。昭和に入ってもお祭りをやったり、正月に山車行列が出たり、と大黒通りは中心街を末広町に明け渡しても町の人に愛され、賑わいを保っていた。

大正時代に入ると先ほど述べたように末広町が中心となっていく。その中でも銀座通りという大層な名前のついた通りが関東以北の繁華街になっていく。その銀座通りも例によって衰退している。現在は、店の名残も減っており、閉店した店も多い。ただ、十字街駅という路面電車の電停に近いところは、まだ店が多い。そして、ここでも大火の話が出てくるが、大火に対抗した耐火建築…。なんか韻がうるさいな…。というのはともかく、RC3階建の大正時代の建物が隣と隙間なく道路に迫り出して立っている。ここが少しヨーロッパを想起させる。

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この耐火建築は本州から優秀な建築士を派遣して建築されたものだという。元々はこのようなRC3階建がびっしり建っていたと予想されるが、老朽化等、さまざまな理由で姿を消していったのだろう。この銀座通りは広々とした道路、という出立ちだが、実は、明治の初めには水路として利用されていたらしい。当時は掘割と言われいたそうだが。

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明治15年を復元した古地図にも水路として載っている。さらに、街路樹に柳が生えていることも水路だったことを表す1つの要因だろう。

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この水路が残っているとまた風情もあったのだろうなとは思う。岡山や京都等、風情のあるところに水路が走っている。なぜか水路があることで雰囲気が抜群に違っている。今更なんのために作るかわからんから、無理だろうけど、あったら雰囲気良かったやろな〜とやはり思ってしまう。その当時は実用的な理由だったはずで、大型のものや量を運ぶには、人力では限界があるが、船で運ぶということは通常のことだった。そういった観光に合わせて作ったものではなく、昔の活用に思いを馳せつつ、現代に残っていると風情を醸しているというものに唆られるのだろう。

函館は海に両サイドを挟まれた街ではあるが、水路や運河、楽しめる川がないのは少し残念なところなのかもしれない。あったらあったで色々あるんかもしれんけど…。ないものねだりはしてもしゃーないので、今の状況と歴史を楽しも。

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