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蟹壺

 バスを降りた先に広がっていたのは、どこか懐かしさを感じる田舎道だった。
 閉じるバスの扉を振り返ったときに、運転手の袖口に数珠のようなものが覗いているのが象徴的で、僕は全身の毛がぞわっと瞬時に逆立った気がした。
 バスは終点の先も道を進んでいき、やがて山間に消えていった。
 残された僕はリュックを背負い直すと、結んだカラビナの束がかちゃかちゃと鳴った。
 一車線しかなくて、道の両側には田んぼが山の麓まで続いて見える。バス停の錆びて変形したプレートの曲がり具合さえ、ノスタルジーを覚えた。
 僕の旅には特に目的などなかった。この何もない田舎を旅の到達点の一つに選んだことも、これといった強い動機があるわけでもなく、前の旅行地の食堂で、この土地のことを小耳に挟んだからに過ぎない。
 僕はしがない地方公務員だった。今はどうなっているか分からないし、興味もない。旅に出るまでは心を病んで休職していて、一日中幻覚に振り回される日々を送っていて、その内自分の周りにあるものが現実のものなのか、僕の想像力が生んだ被造物なのか判断がつかなくなって、この病は誰にも癒すことはできないのだと悟り、黙って旅に出ることにした。
 この村は、その三か所目だ。孤隠村という村で、昔は「孤」の部分が「子」だったらしいのだが、明治の頃に、それでは外聞が悪いというので今の村名に改められたそうだ。子隠、のとおり、昔はこの村で神隠しが頻発したらしい。それも年端のいかない子どもばかり。ネット上では有名な土地だったらしく、噂話はすぐに集まった。今でも「ヤバい」として有名で、興味本位で足を踏み入れたインフルエンサーが戻ってこないとか、眉唾な情報や体験談で溢れていた。
 事前に下調べした限りでは、バスの去って行った方向と垂直に田んぼを横断するような道があり、そこを辿っていくと民家ではなく、小さいながら商店や宿などが集まった界隈に出るという。はたしてバスを追いかけるように歩いていると、すぐに道は見つかった。
 田んぼの角に手作りの案山子が突っ立っていたのだが、その案山子の顔が真っ赤な蟹だった。この辺りは海があるわけでもないし、何より案山子に蟹でカラス避けになるのかと疑問に思ったが、この地域の風習かもしれないな、と私は首から下げたポシェットからメモ帳を取り出して案山子の特徴などを書き記しておく。
 僕は口下手だ。だからいざこんなことがあって、とか、これってなんだったんでしょうね、と会話を広げようとすると、口ごもってしまってうまく会話が続けられない。公務員で心を病んだのも、その辺りが原因だ。しどろもどろになった僕を市民が怒鳴りつける、なんてのは日常茶飯事だったのだ。
 案山子のスケッチまでして気が済んだ僕は、再び歩き始めた。
 しばらく行くと、建物が見えてきて、ちょうど建物群と僕の中間地点辺りをちょっと脇に逸れた畦道に農作業で一仕事終えた、という風情の七、八十の女性がいたので、僕はうっと挨拶したものかどうか迷った。距離もあったし、知らんぷりもできたが、僕としてはなけなしの勇気を奮って、「こんにちは」と挨拶した。
 女性は始めぎょろっとした目を剥いてじいっと僕を見ていたが、しわくちゃの日に焼けた顔を更にしわくちゃにして笑って、「はい、こんにちは」と辛うじて聞き取れるくらいの強いなまりで応えてくれた。
 僕は気分がよくなって笑顔で会釈して通り過ぎようとしたが、女性が手を振ってくれたので、恥ずかしい気持ちもあったが、おずおずと手を振り返した。そのとき、ちょうど夕方の強く濃い日差しが反射して、女性が数珠のようなものを腕につけていることに気づいた。
 はて、と思ってとりあえずメモをし、建物の方を目指した。
 商店や食堂は確かに建ち並んでいたが、どこもやっていないのか、それとももう店じまいだったのか、選択の余地はなく、僕は開いていた定食屋の暖簾をくぐって、席に着いた。
 店は昔ながらの定食屋といった風情で、壁にメニューの書かれた短冊が貼られていたが油で変色したり撓んでいた。誰かも分からないような人物のサイン色紙なんかが何枚かやっぱり貼られていて、カウンターのスツールとも呼べない丸椅子は足ががたついていた。店は結構繁盛しているようで、僕が入ったときはほとんど満席だったが、僕が膨大なメニューを前に頭を悩ませているうちに、一人、また一人と帰り、残っているのは僕と店主と意外なことにセーラー服の女子高生だけだった。座ってお茶を飲んでいることから、アルバイトというわけでもないのだろう。
 結局僕は悩みに悩んで、「おすすめ定食」を頼むことにした。
「ねえ、お兄さんどこから来たの」
 料理を待っている間、手持ち無沙汰にお手拭きを弄びながら、ああ、あのメニューもよかったかな、と考えていると、カウンターの奥に座った女子高生が突然隣に座って声をかけてきた。店主が「よしな、いずみちゃん」と窘めるが、彼女は聞こえないふりをしてやりすごした。
 僕が出身地を答えると、彼女は何度も頷きながら「遠くから来たのねえ、偉い偉い」と感心していた。
「お兄さん、奥さんいる?」
「ああ。子どももいるよ」、言いながら、そうだ、僕には妻も子どももいたのだ、と旅が始まってから思い出さずにいた、蓋をした事実が開いて、中身を覗かせていた。
 彼女たちは僕を心配しているだろうか。それとも、恨んでいるだろうか。一人だけ先行きの見えない人生という船から飛び降りてしまって、岸があるのかも分からない水の中を泳いで逃げ出すようなそんな男を、誰も許すはずがない。
 想像の怪物は、僕を食い殺す。僕の不安や恐れを餌にして怪物は膨れ上がり、幻覚の像という姿を得て、僕を嬲り、食い荒らし、意識をずたずたに引き裂いてから丸のみにする。このときも、その怪物が育ちそうな、塒から顔を出したような気配があった。
「ふうん。ね、あたしとどっちが可愛い?」
 え、と間の抜けた声を出して、比較対象が妻か子どもか、と迷っている間に怪物は興味をなくしたのか塒に戻って行った。
 彼女、いずみと呼ばれた少女は、どっちと訊きながら、自分という以外の答えを想定していない、というより、相手に許していない類の女だった。実際彼女は目鼻立ちも整っていて、肌は絹のようにきめ細かく白く輝かんばかりで、何より目が圧倒的だった。女というのはああいう目のことを言うのだ、と初めて僕は思った。深く黒く、底なしの、木ですら枯れ果てる沼の底。その底に淀み集まった澱のような黒い目。男を喰らい、骨までしゃぶる女の目だと思った。そう思うと同時に、彼女から視線を外すことができなくなった。
「へい、おすすめ定食、お待ち」と店主が割り込む形で皿を僕の前に並べていく。いずみは僕にウインクして、店主に向かって舌打ちをする。
 おすすめ定食は揚げ物の盛り合わせだった。から揚げに春巻き、コロッケ。それから。
「カニ?」
 小さな蟹のから揚げが五匹ほど別皿に載っていた。僕がそれに首を傾げていると、いずみが僕の腕に絡みついてきて、その豊かな胸を押し当てながら、「このカニ、あたしが捕ったんだよ」と上目遣いに言う。
「沢蟹のから揚げだよ。食ったことねえのか」と店主は客がいるにも関わらず煙草に火を点ける。
「そ。そ。沢蟹って雑食だからさあ、ミミズとか桶に入れて吊るしておくと、わんさか捕れるわけ。それをあたしがこの店に卸してるの」
 蟹が桶いっぱいにうじゃうじゃと蠢いている姿を想像すると、から揚げからは箸が遠のきそうだった。
「卸してるって、君高校生だろう?」
 いずみは侮られたと感じたのか、一瞬敵意に満ちた眼差しを向けたが目許を緩ませて笑顔になり、沢蟹のから揚げを僕の皿から摘まみ上げると、半分齧り取った後で、残り半分を僕の口の中に押し込んだ。
 いずみの口の中で、蟹の殻がごりごりと削られ砕かれ、舌が身を味わって嚥下する。それだけのことなのに、僕は目を離すことができなかった。
「だって仕方ないじゃん。ウチのババア、もう動けないんだもん。あたしがやらなきゃ」
「そんな悪いのかい、絹子さん」
 店主が煙をふかし、僕の顔にかかる。「こりゃ失礼」と慌てて灰皿に押し当てるが、定食にまでヤニ被ったような気がして食欲は失せた。けれど、どういうわけか沢蟹のから揚げだけは食べられた。次々と口の中に運ぶ。
「あれはもう長くないね。後は蟹の餌だよ、あははっ」
 いずみちゃん、と店主は先ほどよりも強く窘める。
「ね、お兄さん、知ってる? この村にはね、蟹の壺って言われる場所があって、そこには何万何億もの沢蟹がいるの。それをあたしたちは食べてる。でもね、蟹も餌をやらないと死んじゃうわけ。だから定期的に……」
 いずみがそこまで言いかけて、店主はカウンターを両手で激しく叩きつけていずみを睨みつけた。
「へん、ヤナ感じ」といずみは舌をぺろっと出すと、蟹の小さな足がその上に残っていた。
「お兄さん、あたしならいつでも大丈夫だから、ここに来てよ。これ、あたしの住所」
 いずみはそう言って店のメモに住所を殴り書きすると、「ばいばい」と手を振って去って行った。彼女の腕にも、数珠が光っていた。
「あんた、やめときなよ。あの子は魔女だ」
「魔女?」
「ああ、魔女の家系だ」
 店主は拳を握りしめたまま押し黙って何も言わなくなってしまったので、僕は勘定を置いて店を出た。
 その後一軒だけやっている宿にチェックインしたが、何となく居心地が悪いというか、座りが悪いむずむずした感じになって、そうするといずみの顔や胸の感触が鮮烈に思い出されるので、居ても立っても居られず、住所のメモを手に宿を出た。
 電柱の表示や位置情報アプリを使っていずみの家を目指すと、村からは離れ、山の方に入っていくようだった。途中でスマホの電波も圏外になり、辺りがだいぶ暗くなってくると、心細さ、不安が胃液のように込み上げてきて、怪物がまたうん? と顔を出しかねなかった。
 足早に歩いて、道らしい道を見失わずに歩いていると、前方に大きな古民家風の平屋が見えてきた。ほっと安堵していると、これまでの人生で聞いたことのないような絶叫。断末魔の叫びが聞こえてきて、そのあまりの恐ろしさに、「進む」か「退く」かという二択の選択ができたにも関わらず、僕の思考は「助けが必要?」とか、「巻き込まれたら?」とか、「いずみは無事?」という疑問をぐるぐると抱えてオーバーヒートし、その場に立ち尽くすという考えうる限り最も愚かな選択肢をとった。
 引き戸が荒っぽく引き開けられて、中からいずみが飛び出してきた。あっと声を上げかけて、いずみの手には血まみれの包丁が握られ、彼女自身返り血を浴びて白いセーラー服が真紅に染まっていた。それでも僕に気づくと人懐っこい笑顔になって、「やあだあ、お兄さん、間が悪い。いやなところ見られちゃったな」と頭を掻いた。
「でも来てくれたんだね。嬉しい」と駆け寄ると、背伸びをして僕の首に腕を回して引き寄せ、口づけをする。彼女の舌先に感じた鉄の味は、彼女のものか、それとも、誰のものか。
「ね、さっきの叫び声って……」
「そ。ウチのババア。だってね、ひどいんだよ。お兄さんのこと話したら、あたしじゃなくてババアが横取りしようとしたから……」
 その先はさすがのいずみも言わなかった。僕も言わずに、今すぐ回れ右して引き返せばいい。あの店主が言ったことは事実だ。ここは魔女の住処で、彼女は魔女だ。でも、僕の足は動かなかった。
「殺したの」と震える唇で言葉をようやく紡ぎ、訊いた。
 いずみは友達に初体験の話しでも訊かれたように恥じらって目を伏せて「うん」と答えると、「これから始末するから、手伝ってくれる?」とあの沼の底の淀みのような真っ黒い眼差しで言った。それは懇願ではなく、もはや命令だった。
 僕はいずみの言うままに血まみれの彼女の母親を、もはや生者の重みを感じさせない、死者の軽さの肉体を背負って、山をさらに奥に上った。段々と水の音が近づいてきて、木々の合間から下方に沢が見えた。
 やがて獣道に変わって、枝葉や草を払いながら進んでいくと、地面にぽっかりと穴が空いた崖のような場所に出る。
 穴はだいぶ下の方で沢と繋がっているらしく、水の流れが見えた。だが水に勢いはないため、繋がっていると言っても僅かなのかもしれない。穴の中は人ひとり入れる幅があり、だが入ってしまうと鼠返しのようになっているため、自力で出ることはできなさそうだった。壺の形を思い浮かべると分かりやすいかもしれない。
「さっき店で話したでしょ。蟹の壺」
 やっぱりか、と思いつつ、僕はぼんやりとああ、と答えた。
「それがここなの。これからババアはここに入れて、蟹の餌にする。その蟹を村の人間は食べる」
 僕はゆっくりといずみの母親を下ろし、穴の中へそろそろと落としていく。最後の指先が離れるまで、僕は加害者ではないと思っていた。だが、指が離れてしまった瞬間、強烈な自己嫌悪と罪悪感が胸を突き飛ばすような衝撃となって襲い掛かり、食べた蟹をすべて壺の中に吐き出した。
「お兄さん、あたしのウチで暮らさない? ババアもいないし、あたし一人になっちゃうから」
 僕は吐瀉物に塗れた口を袖で拭うと、顔を上げた。ああ、彼女は黒い目をしている。なぜ僕は気づかなかったのだろうか。彼女が見せるあの目は、僕を食い殺してずたずたにする怪物の目と、そっくり同じだと言うのに。
 無言で頷き、立ち上がった。僕には過去も何もなくなった。ただ、いずみという現在があるだけだ。
 彼女は嬉々とした声で言いながら、腕の数珠を引きちぎる。珠が風に散る蟹の卵のように見えた。
「よかった。あたし、お腹に子どもがいるの。蟹の子」
 悪戯っぽく笑った彼女の声に、僕は田んぼに立っていた蟹の顔の案山子を思い出していた。

〈了〉

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