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イステリトアの空(第4話)

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■本編

 その夜も犠牲者が出た。殺されたのは道場主で小学校の教師である山吹と、一緒に巡回していた二人の門下生だった。
 山吹はさすが兵法家であったと見え、正面から斬り結んだ跡が見受けられた。門下生二人は背中をばっさりと斬られているところから、逃げようとして斬られたのだと窺える。
 人気のない村外れだった。一本砂利道が東西に走っているだけで、周囲は雑草が繁茂している。少し道を外れれば広い雑木林が広がっていた。けして見通しが悪いわけではないが、夜の闇に紛れて人が隠れていれば、見つけるのは難しそうな場所だった。
 春洋は小川の求めに応じて、師の死体の検分に立ち合った。手を合わせ、師の無念を思うと、自然と涙が流れた。
「山吹様の体には、腕や足など裂創がいくつもあります。恐らく下手人は山吹様をあしらいつつ、わざと致命傷にならないよう傷をつけていたと思われます」
 小川は唸る。「一体何のためにそんなことを」
 意趣返しだ、と直感的に春洋は思ったが、それは小川に予断を与えることになる。
「己の腕を見せつけたいのでしょう。犯人は余程自己顕示欲が強い人物ではありませんか」
 しゃがんで傷をよく検める。致命傷は腹に受けた一太刀。恐らくその一太刀だけは本気で放ったのだろう。傷の深度が他の傷の比ではなかった。
 山吹の面打ちはまさに神速の一振りに思えた。どれだけ修練を積もうとも、師の放つ面打ちより速く、胴に打ち込める気がしなかった。速いと知っていても、上回ることはできないのだ。だが、この犯人は胴を切り裂いている。山吹の太刀筋は初見にも関わらず。そして恐らく、わざと得手とする一太刀を出させて殺している。己の腕への絶対的な自信と、人を玩具か何かと思っているような精神の破綻したところが窺えた。
「おかしいと思いませんか、小川先生」
 何がだね、と小川は春洋の隣にしゃがみ込む。
「どこにも見当たらないのです。先生の刀が」
 山吹は家宝の一振りを腰に差して見回りに参加していた。見れば刀はおろか、腰に差しているはずの鞘さえない。
 小川はううむと唸り、顎髭を擦る。
「ここにいたか」
 声がして顔を上げると、そこには息を切らせた岩田が立っていた。
 岩田様、と呟くと春洋はすっくと立ち上がり、身構えた。春洋は岩田と自分の技量は拮抗していると見ていた。見る限り岩田に武装した様子はない。体格差で徒手空拳では不利だが、小川を逃がすことぐらいはできる。
「待て。こちらに敵意はない。話がしたい」
 小川が春洋の肩に手を置き、頷いて一歩前に出る。
「聞きましょう、岩田殿。春洋くんもいいかな」
 分かりました、と頷いて春洋は構えを解いて姿勢を正す。
「して岩田殿、話とは」
 岩田は「その前に」と山吹の死体に向かって手を合わせる。
「此度の事件、我らも無関係ではない、というより、我らの中に下手人がいる」
 長曾根様ですか、と春洋は口にする。岩田は渋い顔をして、「信じたくはないが」と頷く。
「どうしてそう考えたのです」
「大工の三郎殺しの夜、私と山根殿に記憶がないことが分かった。夜三人で宿の部屋で食事をとっていたところで記憶が途切れ、次の記憶は翌朝の布団の中だ。起きたときに妙に頭痛がしたのも、山根殿と共通している。恐らく一服盛られたのだろう」
「成程。貴方がたを眠りこけさせている間に、凶行に及んだと。しかし、なんのために。文部省のお役人がこんな田舎で人殺しなど」
 岩田は疲れたようにため息を吐き、首を振った。
「それは分からん。だが、今回殺された山吹殿はこの村随一の剣の使い手だと聞いた。そんな相手を一方的に蹂躙できる剣の腕の持ち主は、今この村には長曾根殿しかおるまい」
「岩田殿はどうなのです」
 春洋は岩田に水を向ける。岩田は苦笑して答える。
「私も腕に覚えはある。だが、私のものは所詮道場剣法だ。長曾根殿のそれは人を殺すことを前提とした剣技だ。恐らく、人を斬ったこともあろう。私と長曾根殿が死合えば、十中十私が死ぬ」
 ううん、と小川は腕を組み、顎の不精髭を擦りながら唸る。
「確かに長曾根殿は怪しい。だがすべて状況証拠だ。長曾根殿が下手人だという確固たる証拠がなくば、罪を問うことはできまい。まして政府のお役人だ。下手に突けば村にも塁が及ぶ」
「では、このまま見過ごしますか」
 春洋は不服そうに声を上げる。あの怜悧な男は、きっとこれだけで凶行を終える気はない。恐らく何か狙いがあるはずだ。それを遂げるまで犠牲は続くに違いない。
 岩田はしばし考え込んだ後で顔を上げ、「国宗家」と口にした。小川と春洋はぎょっとして揃って「えっ」という声を上げる。
「長曾根殿が問うていただろう。国宗家という家があるかと。今回の視察は、それを調べるためのもののような気がしてな。国宗という家は本当に断絶したのか」
 小川は渋面を作って頷き、「ええ、ですが」と言い淀む。
「何かあるのか」
 小川はちらと春洋を見やり、春洋が頷くのを見て口を開く。
「国宗家は途絶えましたが、ここにいる春洋くんの家が、その血を継いでいるのです。正確には血を継いでいるのは春洋くんと、弟の目使い様だけですが」
「両親はいないのか」
「母は死にました。父はおりますが、おれたちと父に血の繋がりはありません。国宗の血は母の方の血です。おれたちは母の連れ子だったようです」
「そのことを知る者は」
 小川は視線を中空に彷徨わせ、「ここにいる者と、目使い様、お二人の父君、村の長老連、それから、渡し舟屋」と口にしてはっとする。
「渡し舟屋。なぜそんな者が」と岩田は首をひねった。
「彼は元々春洋くんの母君の家の使用人だったんですよ。……いや、迂闊だった。彼の身が危ない」
 小川は早口にまくしたてると、死体のそばに立って調書をとっていた助手に声をかけてこの場を任せて、あたふたと走り出す。
「どうしたんです。先生」
 春洋と岩田も小川を追う。小川はぜえぜえ言いながらも答える。
「長曾根殿は国宗家の話に及んだ時、彼が何か言い淀むのを見ている。事情を知っていると見て狙われても不思議じゃない」
「だが国宗家の者が目的だという確信はない。それに白昼動くだろうか。山根殿も同行しておるわけだし」
「その山根殿。無事かどうか分かりませんよ」
 まさか、と笑った後で、岩田の顔が青くなる。
「長曾根殿は最初から私たちを始末するつもりだったのか」
 恐らく、と神妙な顔で小川は頷く。
 村を南北に縦断する川に差し掛かる。河原の隅に建てられた掘立小屋を覗き込むが、人の姿はない。囲炉裏には火が点いていて、鍋が煮えていた。鍋蓋がことことと音をたてている。魚籠にヤマメが一尾横たわっていた。魚籠には手斧が立てかけてあり、春洋は二人が見ていない間に何気なく手斧を手に取り、懐に隠した。
 渡し舟の方を調べに行った岩田が大声で二人を呼んだ。声には動揺があった。
 駆けつけて岩田が指さす舟の中を覗き込んで、二人は息を飲んだ。春洋は思わず目を背けたが、小川はさすが医者であるからか、舟に横たわった体をまじまじと眺めて検分した。
「体に目立った外傷はない。着衣にも乱れはなし」
 小川は半ば体を舟の中に乗り込ませて、横たわった死体に手を伸ばして調べた。
「恐らく、一刀で首を斬ったのだろう。切断面に淀みがない。体の他の部分に傷がないことを考えると、不意を打って一太刀で仕留めたに相違ない」
 小川が体を起こすと、春洋が口元を押さえながら覗き込み、「殺されたのはここではないのでは」と疑問を呈する。「血がほとんど船底に残っていない」
 そうだな、と腕を組んで俯きながら、小川も同意する。「体も冷たい。殺されてから大分時間が経っている」
「この紺絣、見覚えがある。山根殿に違いない」
「山根殿が始末されたということは、あまり猶予はないかもしれん」
 小川が死体を検分しているのを、二人は黙って眺めていた。
 風がびょうっと吹いて、背後にある林の草木がざわざわと揺れる。岩田と小川は死体に釘付けになって考え込んでいるが、春洋だけは背後の林に気配を感じた。
 風がやんだ、と春洋が瞬きした刹那に、林の中に猫の顔をして、黒いインバネスコートを羽織り、藍の袴を履いた怪人が立っていた。よく見ると怪人は右手に抜き身の刀を提げており、左手には人の頭のようなものをぶら下げていた。
 その異相に気を取られた瞬間、猫の怪人は風のように駆け、あっという間に三人の背後に踊りこんだ。
 岩田も異常に気付いて振り返り、応戦しようと舟の中にあった櫂を掴んだときには、猫の怪人の刀が岩田の首に食い込み、頸動脈を切り裂いていた。
 血飛沫が上がり、岩田は膝を突くが、握った櫂を怪人に向かって投げつけ、傷口を手で押さえながら倒れた。
 怪人は軽やかな、跳ぶような足さばきで後ろに下がり、櫂を避ける。
 河原には怪人が持っていた人の頭が転がって、そのものを映さぬ虚ろな瞳で春洋たちを見ていた。渡し舟屋の頭だった。
 間に合わなかった、と春洋は舌打ちする。
 よく見ると、猫の顔は面だった。嘲笑うような、にやにやとした笑みを浮かべたような顔がまた、うすら寒い怖さを感じさせた。
 春洋は刀が師の山吹のものであることを見抜き、猫の怪人物は長曾根だと確信する。それと同時に、岩田を瞬時に斬り伏せた動きを見る限り、自分の腕で敵う相手でもないということを肌で感じていた。しかもこちらは刀を持っていない。
 岩田の推測が確かなら、狙いは自分のはずだ、と春洋は前に出る。間違っても小川を巻き込んではいけない。長曾根は春洋を斬れると判断すれば、そこに小川がいようとも小川諸共斬るかもしれない。
 懐の手斧の柄を、長曾根には気づかれないようそっと触って確かめる。切り札はこれしかない。長曾根の刀を掻い潜り、懐に入って手斧で急所を叩く、それしかなかった。
 懐には他に護身用に投擲して使うために、胡桃大の鋼の礫を二つ忍ばせていた。主に相手の意表を突き、逃げるための道具だ。ここでそれを使うことで、懐には他に何もないということを長曾根に信じさせて不意を突く。懐に入られても決定打がないと思わせることが肝要だ。
 長曾根はだらりと刀を提げ、剣先は地面についている。全身が弛緩していて、隙だらけに見える。
 一投は、長曾根の力を見極めるために使う。春洋は素早く懐に手を突っ込むと、礫を握りしめ、前方に駆け出す。
 長曾根は春洋の動きに呼応して迎撃態勢を取るでもなく、だらんと脱力したまま呆けているようにしか見えなかった。
 春洋は面に向かって礫を投げる。そのまま突っ込む素振りを見せるが、見せかけだけだ。礫への長曾根の反応を見たら下がるつもりだった。
 礫が長曾根の面に迫った瞬間、甲高い音が鳴って礫は明後日の方向に弾かれていた。刀は振り上げられ、長曾根はそのまま上段の構えをとる。礫を弾いた一太刀、春洋にはまるで見えなかった。
 その場に踏み止まり、慌てて後退する。下がり始めたときには目前に長曾根の姿が迫っていた。
 猫の面がぬうっと目の前に伸びてくるように感じられた。面の奥に、冷え切った鋼のような冷徹で頑なな目を見て、春洋は怖気を振って、本能的に後ろに跳んでいた。死神に首筋に纏わりつかれたような生物としての根源的な嫌悪感を抱いた。
 春洋は首筋にぴりっとした痛みを感じて押さえる。ぬるりと温かいものを感じるが、出血の量はさほどでもない、皮一枚斬られただけだと判断する。だが、咄嗟に後ろに跳ぶ判断をしなければ、間違いなく岩田と同じ運命を辿っていた。初めから退くつもりでなく、勝負を挑むつもりで踏み込んでいたならば、あの世行きだっただろう。
 あの力が抜けた姿勢から、稲光のような速さで斬撃がくる。見てから反応したのではとても避けきれない。面のせいで視線や表情も読めない。まるで正確無比に剣を振うからくり人形を相手にしているようだ。
 だが、なぜ追撃しなかった。春洋は怪訝に思った。長曾根は攻撃を外した次の瞬間には間合いをとっていた。春洋の姿勢は乱れ切っていたし、とどめを刺そうと思えば踏み込めたはずだ。長曾根なら反撃を恐れてということもあるまい。どんな攻撃にも対応できたはず。
 今も長曾根は攻撃する素振りは見せない。岩田のときに見せたような電光石火の攻めを見せるつもりはないようだ。
「力のほどは見せてもらった。年の割に動きは悪くないが、それだけだ。先祖には遠く及ばないようだな。ここで急いて殺すこともあるまい」
 長曾根は落胆したように言い捨てると、河原に刀を放り投げた。
 春洋はこの隙を逃さじと走り出し、刀を拾うと一足飛びに長曾根の首を捉えられる間合いに入り、渾身の力で刀を振った。
 刀が長曾根の首を捉える、と春洋が確信した瞬間、長曾根の姿が消え、そして春洋の視界は激しく回転し、気づいたときには空を眺めていた。背中を打った痛みが遅れてくる。
 投げ飛ばされた、と気づいたのは、空でトンビが一声鳴いて我に返ったときだ。慌てて起き上がるとそこにはもう長曾根の姿はなかった。
「小川先生、長曾根は」
 小川は春洋に声をかけられてはっとして、「いや、気づいたときには」と首を振った。
「岩田殿はどうです」
 春洋にも分かってはいたが、聞かずにはおれなかった。岩田からは、まだすべての話を聞いたわけではない。
 小川は肩を落とし、首を振る。「駄目だ。急所を斬られている。もう息はない」
「そうですか」
 春洋は地面に拳を打ちつける。砂利が舞う。
 三人もの人が死んだ。こんなあっという間に。自分は何をしていたか。救うこともできず、ただ無様に投げ捨てられ、情けさえかけられて生き延びている。春洋の胸にふつふつと怒りの炎が起こり、長曾根への憎しみが風となってその炎を助ける。
 だが、見逃したのはなぜだ。渡し舟屋を殺したということは、春洋が国宗家の血を引く生き残りだということは知っているはずだ。それなら、むざむざ見逃したりはしないはず。では、国宗家の人間が目的ではない? ならばなぜ渡し舟屋を殺した。疑問は堂々巡りする。
「先生。なぜ長曾根は国宗家を狙うのでしょうか」
「ううん。私にも分からんが、国宗家は『剣杖(けんじょう)』を指揮する立場にあったという噂もある。もしかするとその辺りが……」
 春洋は首を傾げる。「先生、剣杖ってなんです」
「江戸の頃に存在したと言われる、影の治安維持組織だよ。藩に属しながら幕府の直轄であり、藩主の命すら通じず、独自の指揮系統で動く完全独立した組織だ。幕府公認の人斬り集団で、新選組の元となったとも言われている。五代将軍綱吉の時代に、柳沢(やなぎさわ)吉(よし)保(やす)が秘密裏に組織したと言われている。治安維持は建前に過ぎず、その真の任務は『猫人間』を探し出して討伐することだったらしい。いつの間にか姿を消したようだが」
 猫人間はこの地方で語られる妖怪のような存在だ。猫の頭に人の、筋骨隆々とした肉体を持っていると考えられ、またの名を猫神と呼ばれていた。恐れられる反面、信仰の対象ともなっている。それくらいのことは春洋も知っていた。だが、この地方に伝わる怪異を、幕府直轄の組織が狙っていたなどと、到底信じられることではなかった。
「私も信じがたいが、猫人間はこの地方だけの存在ではないらしいんだ」
「なぜ幕府は、秘密組織を作ってまで猫人間を追ったんでしょう」
 小川は困ったように苦笑して、「それは分からんなあ」と頬を搔いた。
「国宗家はかつて剣杖の指導者的立場にあり、そのことが原因で長曾根は国宗家に強い恨みを抱いている。そういうことでしょうか」
「今考えられるとすればそう考えるしかなさそうだ。だが、それならば、なぜ」
 春洋を殺さなかったのか。二人は腑に落ちず考え込んだ。
「国宗家の当主には剣の達人が多かったという。また、千里眼を持つことでも知られていたようだ」
 千里眼、と疑わしそうに春洋は眉を顰める。
「ああ。過去と未来を見通し、遠く離れた場所のことも視ることができると言われていたようだよ。どれだけ本当のことなのか分かったものではないが」
「それなのに滅んだ」
 小川は頷く。「あくまで噂だ。その噂も、もう語られなくなって久しいのだが」
 長曾根は襲撃の際、猫の面を被っていた。意図的に猫人間を想起させようとしている。ならば、剣杖のことも知っていたのではないか。「先祖には遠く及ばない」、そう言っていた。まるで春洋の先祖、国宗家の誰かの剣の腕を知っているかのような口ぶりだったが、そんなことはありえるのか。春洋は頭を抱える。
 はっとして春洋は立ち上がる。長曾根は国宗家の血を継ぐ者の剣の腕を春洋で確かめた。ならば、国宗家の千里眼の力を確かめようとするのではないか。
「秋継。先生、奴の狙いは、秋継です」
「秋継? そうか、目使い様か。国宗家の血を引く者はもう一人いる。そちらを狙うか」
 小川が納得して頷くより早く、春洋は駆け出していた。河原を踏み越え、堤防を登って越えて飛び降りる。
 刀に視線を落とす。たとえ間に合って駆けつけたとしても、勝てる見込みはない。だが、師の刀で一矢報いて師の無念を幾ばくかでも晴らし、弟を守らねばならない。
 畑の間を通り抜ける。河原から北東に広がる雑木林の中に踏み込み、右に左に樹木を躱しながら走る。
 林の中は清冽な水のような空気で満ちていた。だがそれは春洋にとっては自分を切り刻む、長曾根のあのからくり人形のような無慈悲な刃を浴びていると錯覚させた。
 落ち葉を踏み、枯れ枝を踏んで砕く。その音を聞くたび、自分の周りから消えていってしまった命が砕けたように感じた。一歩二歩、進めば進むほど、死者は増える。死者の手は、自分の足を掴もうとしている。彼らの方へ引きずり込もうとしている。春洋はそう考えて背筋を寒くした。手にはじっとりと汗をかいている。
(死ぬかもしれない。殺すかもしれない)
 真剣は重い。人を斬るつもりなどなく持てば、こんなものかと感じた重さも、生死を賭した場にあっては、人一人しがみついているのではないかと思うほどだ。そのしがみついた者は、紛れもない自分の妄念だ。死にたくない。殺したくない。生から自分を遠ざける亡者の重さ。
 春洋は立ち止まり、刀を青眼に構えて目を瞑る。浅く吸って、深く息を吐く。ざわざわとした草木の気配が自分を中心に広がっていくのを感じる。
 目の前に同じように刀を構えた自分が立っているのを頭の中に思い浮かべる。想念の自分は、怯えた顔をしている。死を確信した、追い詰められた鼠の顔だ。剣先が震えている。ただ怯懦ゆえに震えている。

〈続く〉

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