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レポート№93「ぱらぱげるについての覚書」

 このレポートは私の膨大な研究の一部である。だが、枝葉末節だと思ってほしくはない。このレポートに記した事実こそ、私が追及する人間の幸福、その道への根幹を成すと言えるだろう。
 ぱらぱげる。この不可思議な、生命体なのかそうでないのかすら分からない物体(学会では生物であるという意見が有力であるから、私もそれに倣おう)のことは、説明するまでもないことだと思うが、万が一、このレポートが世に出る際にぱらぱげるの存在が消失していたり、隠蔽されていた場合を考え、簡単に説明しておく。
 ぱらぱげるは白銀の皮をもった甲虫のようであり、海よりも深い青の不定形の生物である。矛盾する描写のようだが、ぱらぱげるの本体である青いゼリー状の肉体は非常に脆弱であり、外気に長時間晒されていると赤く変色し、最後には溶けてしまう。そのため、外殻として白銀の皮を纏い、普段は外気や日光を防いでいる。
 これだけ聞くと生物のようだが、ぱらぱげるは通常生物がもつ臓器の類を一切もたない。栄養の摂取、呼吸、排せつ、そうした生命維持に必要な活動が一切確認できないのだ。そのため、ぱらぱげるを生命体として認めることに反対する一派がいるわけだ。
 ぱらぱげるは街の片隅にいることが多い。街に蔓延る暗闇を集めて押し込んだような路地裏の、さらに薄暗いゴミ箱の影なんかにいる。そのため、街灯やオフィスの明かりで眩い街中に出てくることは少ない。能動的に動くこともできるが、大抵風に任せて転がっているようだ。
 ああ、すまない。自分の名前を名乗っておくことを忘れていた。私は如月幸一郎。××大学で教授を務めている。今はぱらぱげるについて研究しているが、この研究は更なる偉大な研究へのステップに過ぎない。私は人間の感情について研究していて、ぱらぱげるを研究していくうちにある事実に気づいたのだ。
 ぱらぱげるは自分の身に危機が迫ると、ある種の波動のようなものを発していることが分かった。その波動を受けた生物は、脳に影響を受け、各種の脳内物質――主に人間の幸福感に寄与する物質――たとえば、セロトニン、オキシトシン、ドーパミンやノルアドレナリンなどを多量に分泌するようになる。つまり多幸感に包まれるというわけだ。
 だが何もぱらぱげるは相手を幸福にするために波動を発しているわけではないことが、近年の研究で分かった。波動を照射し、相手が無防備になったところで接近し、白銀の皮の中から本体を覗かせ、相手のつま先や指先をとっかかりにして青いゼリー状の肉体で包んでいき、体内に吸収するのだ。するとどうだろう。ぱらぱげるはわずかながら骨や臓器の胚とでもいうべきものを獲得する。この吸収を繰り返していくと、ぱらぱげるは現存生物と同等の機能を備えた生命体になると想定される。が、そうなった場合のリスクが計算できないため、一度でも捕食行動をとったぱらぱげるは廃棄される。
 なお、吸収されるものは自力で逃げ出すことができない。至近距離でぱらぱげるの強力な波動を照射され、強烈な多幸感の波、いわば母なる乳房の揺り籠の中で揺られている状態なのだ。指を食われようが足を食われようが気にもならない。そうして骨の一片まで食い尽くされる、その最期の瞬間まで彼は幸福なのだ。
 私はこのぱらぱげるの波動を人為的に再現し、小さなチップにして脳内に埋め込むという術式を考案している。波動を廃人にならない程度に制御し、幸福に満ちて人生をおくることを可能にする理想のチップ。……そのチップには別のプログラムも書き込むつもりだ。「否定」に対し拭い難い嫌悪感、忌避感を植え付けるプログラムを。
 幸福であれば、人は互いにいがみ合い、「否定」し合うことはないだろう。「否定」は争いや戦争を呼ぶ。先のロシアのウクライナへの侵攻が火種となり、燃え広がって悲惨な結末を見たことは、諸君の記憶にも新しいだろう。パレスチナの問題もそうだ。あのように残酷な終局を迎えることは、誰にも予想できなかった。
 「否定」は死の風だ。荒野の廃墟に吹く、湿って黒ずんだ、べたつく風。その風が吹けば、必ず誰かが死ぬ。
 私の婚約者はストーカーに殺された。ストーカーは彼女が私と結婚間近だと知ると、自分の生を冒涜されたような気になり、彼女に対して敵意を爆発させ、彼女の生を「否定」したのだ。つまり、夜道で待ち伏せて、後ろからナイフで一突きにした。ナイフは急所を外れていたが傷が深く、彼女の死因は失血死だった。さぞ痛かったことだろう。苦しかったことだろう。
 私は警察の手が伸びるより早くストーカーに接触した。彼は分かりやすく漫画喫茶をうろうろしていたので、見つけるのは容易だった。別荘に匿ってやり、食事や寝床を提供した。そして彼が十分油断したところで、睡眠薬を盛って、地下の小部屋に幽閉した。ぱらぱげると一緒に。そして付け加えるならば、彼には術式を施した。ぱらぱげるの波動のチップ。まだ試作用の不完全なチップだ。といっても幸福感を増大する効能に問題はない。問題は感情を制御する機能があまり有効に働いていないことだが、この際いいだろう。
 数日間は何も起こらなかった。ストーカーは幸福感に支配されていて、忘我の境地で天井を見上げていたし、ぱらぱげるはごろごろと意味もなく転がっていた。
 異変が起きたのは六日目のことだ。
 ストーカーは相変わらず薄ら笑いを浮かべたままぼんやりとしていたが、転がっていたぱらぱげるが突然ぴたっと動きを止めると、羽ばたく甲虫のように白銀の皮を開いて立て、金属を擦り合わせたような甲高い超音波を発し始めたのだ。その音は監視カメラのレンズにひびを入れるほどだった。よく見ると、体色が青から紫に変化していた。
 ぱらぱげるの変貌にも無関心だったストーカーだが、超音波が鳴り響くに従って、徐々に不安げな表情になり、泣き出しそうな顔になって、「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返し、やがて壁に激しく頭を打ちつけ出し、額を叩き割って死んだ。
 ストーカーが死ぬとぱらぱげるは転がってストーカーの死体に近寄り、壁にお辞儀をした状態の彼のつま先から食らい始めた。
 私は彼女の復讐をしたかったのか。それとも、ただ自分の知的好奇心を満たしたかっただけなのか……。既に狂気にとりつかれているのではないか。いや、考えまい。私が止まれば、人類の進歩も止まる。
 これは私の推論に過ぎないが、ぱらぱげるは最初から幸福な人間に対しては波動が有効ではないため、「否定」の波動を発するようになるのではないか。ストーカーの様子や怯え方から見て、自己否定に至ったと思われる。つまり、世界が幸福な人間だけになったとしたら、ぱらぱげるは恐るべき「否定」の権化になるということだ。
 私はこの実験から二つのことを決意した。
 一つ目は、チップの完成をもってぱらぱげるを掃討し、根絶やしにすること。
 二つ目は、チップの埋込は、例外ひとつなく、全員に行うこと。逃れたものが「否定」の因子になり得る。
 ストーカーを吸収したぱらぱげるは焼き払った。外皮の白銀の皮は火や衝撃に極めて強いが、中身は火に弱い。外皮の重なる部分は比較的弱いので、そこにバーナーを突っ込んで焼き払ってしまえば、容易に駆除できる。
 ぱらぱげる――その神の悪戯にしか思えない生物から、我ら人間の叡智は千年、いや万年の楽園を得て、神ですら成しえなかった天の国を地上に築くのだ。
 そして私、如月幸一郎がその礎を成す。

〈了〉

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