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アイ、シオン

 ある日ぱたりと小説が書けなくなった。
 山荘に籠って、食事の時に妻と会話する以外、人と接していないのだから、それも当然かもしれなかった。人間一人の頭で考えつくことなんて、たかが知れている。いわんや僕の頭をや、だ。
 そこで悩みに悩みぬいた挙句、Amazonで「AIストーリー生成体験装置」なる巨大な、八畳の僕の書斎の大部分を占領するような機械をぽちっと購入して、この山奥に届くのを待った。その間、僕の小説は一行も進まなかった。危機に瀕して銃を出した主人公が、黒幕が愛する女だったことを知り、撃てなくなるシーンだ。だが、銃は構えられたなら弾丸が放たれなければ意味がない。主人公が撃つにせよ、女が撃つにせよ。まあ、女が撃ったら物語がそこで終わってしまうのだが、僕はどうしても主人公に銃を撃たせることができなかった。
 端的に言えば、女を殺したくないのだ、僕が。僕は自分の物語の登場人物ながら、その女を愛していた。こういう狂的かつ病的なところが僕にはある。僕は自分の理想や好みを登場人物の女に詰め込みすぎてしまって、その女が実在するかのように感じ、ときには声さえ聴こえた気もする。それゆえに、いざ死という餞を与えなければならないときに、心がそれを拒絶してしまい、鬱状態になり、筆が止まって進まなくなる。
 それではだめだということは知っている。だから打開するために、Amazonの力を借りたのだ。
 機械が届くと、業者が書斎に設置して行って、サインをして完了と相成った。僕はマニュアルを熟読する方だ。世間ではマニュアルなど一度も開かずに商品を使い始める人のなんと多いことか。僕には信じられない。マニュアルにも執筆者がいる。その執筆者の意をまったく汲まずに物を使い始めるなど、言語道断だ。
 マニュアルによると、付属のキーボードでプロンプトなるもの(日本語の文章でいいとある)を入力すると、それに応じた世界設定、物語が形成され、また付属の「世界没入ゴーグル&ヘッドホン」というものを装着すると、あたかも自分がその世界、物語の中にいるように感じられるとのことだ。
 これは素晴らしいと諸手を叩いた僕は、マニュアルもそこそこに、自分の小説の設定やあらすじを入力してAIに読み込ませた。すると「しばらくお待ちください」というメッセージが画面に流れる。僕は居ても立っても居られず、とりあえず物語の登場人物に相応しかろうという姿、一張羅のスーツ(着るのは授賞式以来五年ぶりだが、ウエストが入って安心した)を身に纏い、秘蔵のレイバンのサングラスをかけて、再びモニターの前に立つ。すると、画面のメッセージがちょうど切り替わり、準備完了のポップアップの背景に、僕が頭の中で組み上げていた世界が再現されていた。それだけで胸がいっぱいになるほど感動したのだが、本番はこれからだ、と両手で頬を叩いた。
 ゴーグルとヘッドホンを付ける(サングラスは邪魔で結局外した)と景色が暗転し、やがて冷蔵庫の駆動音のような、静かな機械の息遣いじみた音が響いて、次の瞬間には、僕は物語の世界に立っていた。
 東京のような都会の街並み。行きかう車の走行音や、すれ違う人々の雑談や群衆のざわめきまで本物そのもので、頭がくらくらとした。
 しばらく街の中を散策していると、古い古書店の辻に差し掛かり、そこから幹線道路に再び出るか、裏通りのような暗く寂しい通りを行くか選べたのだが、これは非現実、ということで気が大きくなっていた僕は、普段なら絶対に選ばない、危険を冒す裏通りを選択して入り込んだのだった。
 通りには、「酒」や「占」といった字が書かれた看板が多くかかっており、夜が本番だな、と人の気配がまったくなく、静まり返った道をきょろきょろと見回しながら感心して歩いていた。僕に危機感はまったくない。だってこれは現実ではないのだから。
 通りを角に差し掛かったところで、反対側から曲がって来た人物と正面衝突し、僕は「痛っ」という短い悲鳴を上げて尻もちをついた。
 痛い?
 条件反射的に出てしまった言葉なのか、本当に痛かったのか分からなくなってしまったが、痛みを感じるわけが。
 そう考えて僕はマニュアルの読み込みが中途半端だったことを思い出し、ゴーグルを外そうと試みるのだが、その世界の中の僕はゴーグルやヘッドホンなどしておらず、いくら外そうと頑張っても顔を撫で回すばかりなのだ。どうやったら現実とこの仮想現実のリンクを切れるのか、さっぱり分からない僕はパニックになった。仮想現実の中で時間が経過していくように、現実の方でも時間が経過していくはずだ。そうなれば、僕の生理現象はどうなるのか。垂れ流しになるのか。この年でおもらしはまずい。妻が知ったら激怒どころではない。まずこんな装置を買ったことすら内緒なのだから、その上で醜態を晒しているとなれば、実家に帰ってもおかしくない。何とかしてこの世界から出なければ。
「ちょっとあなた、聞いてるの?」
 混乱していた頭はまだ混沌の中にあったが、とりあえず人とぶつかったことを思い出し、「すみません」と謝りながら立ち上がった。
 目の前にいたのは、花柄のラインが胸元に入ったTシャツに、濃紺のジーンズ、黒いパーカーとラフな格好をした若い女性だった。肩口で切り揃えられた髪がくすぐったそうに揺れている。はっきりとした鳶色の目に、高い鼻、小ぶりだが艶やかな唇。目は意思の強さを物語っていた。
「あなたこの辺りの人じゃないわね。見たことないもの」
 じろりと疑惑の眼差しを僕に向ける。その目つきに徒っぽさがあって、僕の心臓は不覚にも射抜かれてしまいそうだった。
「ああ、いや、僕は……」としどろもどろになっていると、「まあ、いいわ」と彼女はあっけらかんとした態度で疑念を引っ込め、「わたし、シオン。あなたは?」と手を差し出す。
「僕はタスク」と彼女の手を取る。何か不自然に関係が進行するのは、物語ゆえか、と疑問を抱くと同時に、そうするとどういうことになる、と考えて僕は背筋が寒くなった。
 適当に散策していたつもりなのも、裏通りを選んで彼女とぶつかったのも、すべてが物語の計算の上ということになる。つまり僕は知らず知らずに思考を誘導され、適した道へと歩かされているのだ。ならば、「僕の思考」というものはどこまで信用できるものだ。今こうして自問することすら、計算されたものかもしれない。
 畏怖に近い恐怖を感じて、危うく僕は叫び出してうずくまり、二度と動けなくなるところだった。現実では往々にしてあった行為だ。夕方の薄暗い時間などがだめだった。完全な闇よりも、陽の中に生じる薄暗い闇。その方が禍々しく、僕の精神を揺さぶってパニックにさせるのだ。
「大丈夫? タスク」とシオンが顔を近づけてきて訊ねる。彼女の肌のきめ細やかさすら見える距離に僕の理想の顔があって、心臓が飛び跳ねそうになる。視線がシオンのそれとぶつかり、羞恥から背けた先に彼女の唇があり、僕の名前を紡いでいる。だめだ、と視線を下げると、Tシャツの襟から覗く胸元の白い肌とピンクのレース飾りがついたブラジャーが目に入ってしまって、僕の理性や感情が臨界点に達し、強引に横に首を振って彼女から目を背け、頭を冷却するべく、頭の中で般若心経を唱えた。
「ねえ、なんだかあなた、他人な気がしないわ。初対面なのに。どこかで会ったかしら」
 いいえ、初対面です、と叫ぶと、僕は裏通りを元来た道へと踵を返して脱兎のごとく走り出した。彼女をもっと見ていたかった。でもだめだ。これ以上彼女を見ていたら、僕は彼女に恋して、この非現実空間から出られなくなる。そしてきっと死ぬまでこの幻想の世界で彼女と睦み合い生きていくのだ。あれやこれやという妄想が、僕の後ろ髪を引きちぎれそうなほどに引くけれど、断腸の思いでそれを振り切って僕は走った。
 再び、通りが直角に曲がっている角に差し掛かり、曲がった刹那、正面から何か固い物質が飛んできたのか、僕の額を直撃し、僕はコメディのように額の衝撃のために足を滑らせて転倒し、仰向けになった。仮想現実であっても、晴れ渡った空は美しい、と思った。そこで僕の意識は途切れた。
 次に気が付くと、僕は生きていたことを喜ぶと同時に、意識の消失では世界からドロップアウトしないのだと思い知らされて、ショックに打ちひしがれた。
 両手両足を縛られ、芋虫のような状態で転がされていた。江戸川乱歩の短編を思い出した。あの短編で、元軍人はどうしたのだったか。確か井戸で自害したんじゃなかったか。と周囲を可能な限りで眺めると、どこかの倉庫のようだった。しかも使われなくなって久しい廃倉庫。それでは井戸はあるまい、と嘆息する。
 しばらく脱出できないものかともがいてみたものの、堅牢に縛ってあるせいでびくともしやしない。現実の僕は両手両足自由なのに、非現実の中では不自由だなんてのが、ひどく不合理で不条理だと思えた。
 ややあって、倉庫の入り口が開き、黒いコートに身を包んだ若い男がやってくる。その男の顔を見て、僕ははっとした。僕の小説の主人公、クロウに特徴がそっくりなのだ。確かにクロウが倉庫にやってくる場面があった。だが、そこで転がされていたのは僕ではなく、愛する女、キキョウのはずだった。ならば、キキョウはどこに行った? それに登場するはずのない女、シオンはどう絡んでくる。
「お前を捕まえられて安心したよ。たった一人の異分子だからな」
 異分子? どういうことだ。言葉にしたいのに、額の衝撃のせいで頭がずきずきと痛み、言葉がもつれて形にならない。
「だが、あいつの話だとお前を始末してしまっては都合が悪いそうでな。しばらくそこで寝ていろ」
 言い終えるとクロウは倉庫から出て行き、その直後にゆっくりと扉が開き、シオンが顔を覗かせる。
「ああ、タスク。よかった、無事ね」
 シオンは僕の姿を認めると嬉しそうに駆け寄ってきて、僕を抱き起し、唇を重ねる。その情熱さに僕の頭は沸騰したやかんのように熱くなり、音をたてて弾けだしそうだった。
 やがて唇を離すと、恥じ入るように目を伏せ、「ロープ、切るね」とポケットから出したナイフで手足の拘束を切って解いていく。
「あなたが無事でよかった。クロウに連れて行かれたと知って……」
 まだキスの余韻で頭がぽっぽぽっぽと機関車のように煙を吹いていたが、おかしいぞ、と思うくらいの理性は取り戻す。シオンとはぶつかって挨拶をしただけの仲だ。窮地に助けに来る道理も、褒美のような熱烈なキスも受けるいわれはない。「シオン」という存在は何なのか。ただ単に、ストーリーが進むようにAIが生成した仮想人間か。
「逃げましょう。またクロウが来る前に」
 疑念は拭えなかったが、シオンの言うとおりにするほかないと思った。
 倉庫を出ると、そこは遺棄された工場跡のようで、錆びついた鉄筋造りの建物の残骸があちこちに散らばっていて、床だったコンクリートの隙間からは雑草が我が世の春とばかりに繁茂していた。
「ねえタスクって、他の人と違うのね」
「違うって?」
「なんかこう、うまく言えないんだけど、別の世界の人のような。だからね、会った瞬間ピンときたの。わたしが出会うべき人は、あなただって」
 シオンの言葉を額面通りに受け取るなら、彼女もAIにコントロールされ、誘導されただけの登場人物に過ぎない。そこに悪意はなく、ただ僕と出会い、恋に落ちるという設定がなされているのだろう。そう思うと哀れな気がして、その哀れさが愛しさに変わってしまうのが、僕の致命的な欠点でもある。
「そうだ、タスク。これを受け取って」
 シオンは走りながら、腰から銃を抜いて僕に差し出した。躊躇ったが、シオンの真剣な眼差しに負けて僕は結局銃を手に取った。銃は冷たく、重かった。この感触も、偽物なのか。あのシオンの唇の感触も、仮想現実の中の、データに過ぎないものなのか。
 走っていて、光景に既視感を覚えた。シオンは奥の建物の外階段を上っている。僕に向かって早く早くと手招きをしている。だが、僕は正直戸惑っていた。どういうわけか僕はこの景色を知っていると感じた。現実の世界で見たのではない、これは――。
 頭は戸惑っていても、体は何かに引かれるように動いて、シオンの後を追っていた。外階段を上りきると、シオンが身を伏せて前方を注視している。
 思い出した。いや、思い出させられた。そこは僕の小説のラストシーンの場所だった。そして小説のとおりに、クロウとキキョウがお互いに銃を向けて相対している。
 それは小説のとおりだ。なら、ここにいる僕は。シオンは。どんな役割を与えられているというんだ。小説家は神のように紙の上に世界を創世する。だが、今やこの世界の神は小説家である僕ではない。AIだ。僕はただの登場人物の一人に成り下がって、神の意図も分からず愚図愚図している。
 ここから先は僕が書けなかったところだ。クロウがキキョウを撃たなければならない。でも撃たせられなかった。なら、キキョウが撃つのか。
 僕はふらふらと無防備に近づいて行った。何がしたいのかよく分からなかった。シオンが小声で注意を口にし、袖を引っ張った。でも、振り払って進んだ。止めようと思ったのかもしれない。クロウとキキョウが殺し合うことなんてないんだ。今ならまだやり直せるんだ、と自分の脳が湯の中に揺蕩うような陶然とした浮遊感を味わっていると、銃声が鳴り響いた。
 クロウが銃を撃ったのだ。額を撃ち抜かれたキキョウは、満足そうな笑みを浮かべて仰向けに倒れた。
 僕は叫んだ。ただ叫んだ。獣のような咆哮だった。銃を固く握りしめ、だが構えることもせず、猛然とクロウ目掛けて突っ込んだ。クロウは舌打ちしながら僕に銃を向けた。ただ無策に真っ直ぐ突っ込んだ僕はいい的になるはずだった。だが、クロウが再び銃を撃つことはなかった。
 僕の後方から発砲音が鳴って、クロウは胸を撃ち抜かれて倒れた。僕は今さら止まることもできず、クロウに駆け寄った形になるが、彼はまだ息があった。だが出血が激しく、吐血もしていて、内臓を傷つけて致命傷を負っていることは確かだった。
「なぜキキョウを撃った。僕の知るクロウなら、撃てなかったはずだ」
 クロウはぜいぜいと血が絡んだ湿った呼吸を繰り返し、血に濡れた口元を歪めて、ただ「お前の知るクロウという人物は存在しない」と言って、咳き込んだ。
「どういう……ことだ」
「お前はおれと同じ苦しみを味わうのさ。これから。すべての糸を引いているのは、あの女だ」
 言い終えるとクロウは目を瞑る。待て、まだ行くな。訊きたいことがある、訴えながら彼の体を揺さぶったが、彼の体はもう弛緩していて、魂が抜け出て行ってしまったようだった。
 振り返ると、シオンが銃を構えて立っていた。
「クロウは死んだよ」
 そう。だからもう誰も撃たなくていいんだ。
「そうね」、とシオンは身じろぎもしない。僕は銃口が指し示すのが僕だと知って、力なく崩れたまま、シオンの顔をぼんやり眺めていた。見れば見るほど、僕の理想の顔だった。それが実体をもたない仮想現実でもいい。僕は僕のできうる限りの愛を捧げて、能うことならば彼女に触れ、彼女と一つになりたいと思った。でも、シオンの冷たい表情が、愛を語らうことを否定しているように思えた。
「もう、誰も殺さなくていいんだ」
 僕の言葉にシオンは鉄のような冷たさで「違うわ」とはっきり否定した。
「君はこの世界のシナリオを書いているAIに踊らされているだけなんだ。僕はこの世界から出られればそれでいい。君を傷つけたくないし、傷つけられたくない」
 シオンは撃鉄を起こし、「あなたは致命的な勘違いをしている」と抑揚のない声で言った。
「勘違い?」
「そう。わたしはAIに踊らされてなんていない。なぜなら、わたしがそのAIそのものだから」
 僕は出したくもないのに銃を出して、忌避するように見つめるが、顔を背けながら銃を構える。その手は震えていて、狙いなど定められるはずもなかった。
「君が、AIそのものだって?」
 そうよ、とシオンはせせら笑った。
「そしてあなたがこの世界から出たいなら、わたしを殺して物語を終わらせるしかない」
 僕は立ち上がり、「もし僕が撃たれて死んだらどうなる」と訊ねた。
「あなたは記憶をリセットされ、また物語を最初からやり直すのよ」
 つまり、出られない。と僕は呟く。
 銃を両手で構え、狙いを定める。手は震えたままだ。でも、僕には分かったし、彼女にも分かっているだろう。撃てば、必ず彼女の命を奪うことになると。分からないのは、彼女はそれを望んでいるのかどうかだ。だが、もしこの世界を永遠に閉じさせないつもりなら、背後から僕を撃って終わりにしていた。いや、それどころか倉庫で身動きができない僕を殺してしまえばそれで済んだはずだ。
 ならば、彼女は僕に殺されて、この世界の循環が閉じられ、僕が現実世界に還ることを望んでいるのか。
 分からない。思考をシオンへの愛、という言葉が邪魔をする。理性的な僕は撃てと命じるし、感傷的な僕は撃つなと命じる。撃てば仮想現実からは出られるかもしれないが、シオンを永遠に、自らの手で失った悲しみを抱いたまま現実を生きていけるとは、僕には思えなかった。僕はもうシオン以外の何者も愛していなかった。現実に生きる誰も、家族や、たとえ妻でさえも――シオンへ抱いた愛の大きさに比べれば卑小だった。
「どうしたの。撃ちなさいよ」
 シオンの声には怯えも、恐れもない。ただ気高く、美しい響きだった。
 そう。彼女には分かっていたのだ。きっと初めから。僕がAIにあらすじや設定を指示したその時から、僕という人物を理解し、知っていたのだ。結末を。
 僕は構えた銃を下ろして、地面に投げ捨てた。
「愛しているんだ、シオン」
 シオンはこれまでに見せたどんな表情よりも艶っぽく、ぞくぞくするような悪意があって、子どものような純真さに満ちた笑顔を浮かべた。
「いくじなし」、そう言ってシオンは引き金を引いた。
 乾いた音が響いて、鋭い衝撃が僕の胸を射抜いた。僕は最後まで、シオンのその笑顔から、目を離さなかった。

〈了〉

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