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夢、ある春色


■前書き

こちらの小説も「うつつゆめ」と同様にPDFファイルで掲載していたものになりますので、手に取りやすいように再アップします。

「叶えたい夢」で企画があったかと思いますが、その企画に合わせて書いた小説になります。企画に小説で応募するなよ、ひねくれものめ、という声が聞こえてきそうですが、私にはこれしかなく。

小説が一番、自己表現の手段としてしっくりきます。

それでは本編へどうぞお進みください。
サムネイル画像と本編のイメージが一致しないかもしれませんが、お気になさらぬよう。

■本編

 小気味よいリズムで、包丁がキャベツを刻んでいく。
 僕はその音を聴きながら、じっと身を丸めて目を瞑っていた。背中は窓から差し込む早春の日差しを浴びて、じわじわと心地の良い温もりが広がっていた。
「ねえ、あなたには夢ってあるのかしら」
 僕はおもむろに目を開いた。ぼやけた像を結ぶ目のピントがきゅっと引き絞られ、はっきりと彼女の後ろ姿が見えた。
(君は考え事をしたいとき、キャベツを刻む)
 そしてキャベツだけじゃ味気ないから、と一緒にカツを揚げるのだ。キャベツを刻む手の感触、そして包丁が刻み、まな板にぶつかる音。それが一定のリズムで繰り返されるのが、考え事をまとめるときに一番いいんだと、僕が初めてこの部屋にやってきた夜、冷ややかな夜風に当たりながら言った。
 彼女はキャベツを切る手を止めて、頬に垂れかかった髪をうるさそうに手で払いのけながら、背を向けたまま、「あなたに訊くなんて、わたし馬鹿みたいね」と自嘲して言った。
 彼女は「長い髪なんてね、うっとうしいだけなのよ」といつもうんざりしたように言っていたけれど、一向に美容室に行く気配は見せなかった。
 でも、それでよかった。僕は彼女の長い黒髪が好きだ。真っ直ぐに流れ落ちる髪を手で弾くと、ハープの音色が聴こえてきそうなくらい優美だった。それから、彼女の気にしている吊り目。その目も僕は好きだ。切れ長の目は知性を感じさせたし、ちょっと吊り上がっているのは怒っているように見えるけれど、凛々しくて強さも感じさせる。髪の優しさと対立するような目の印象が、彼女の顔のバランスをとっているように思えた。
 1DKの狭いアパートの中には、僕と彼女しかいない。
 部屋には最低限の調度品しかなかったけれど、それらは北欧風に統一されていて、お洒落にはちょっとうるさい僕でもまあ、なかなかいいんじゃない、と頷いて見せるほどにはセンスがよかった。
 部屋にはテレビがなかった。前の彼女はテレビで動画配信サービスばかり見ながら酒を飲んでいたので、この部屋に来たときには驚いたものだ。テレビを家に置かない人間がいるのか、と冷蔵庫と壁の隙間にまでテレビを探したほど驚いた。
 その代わり、古びたラジオが一台あった。小さい癖にやたらと重たい奴で、無骨すぎて飾りっ気もない。なぜこいつが、と顔を顰めてしまうくらい、このラジオの存在はナンセンスだった。
 彼女はラジオを聴かなかった。というよりも、必ず毎日夜七時半にスイッチを入れるのだが、老体のラジオはガーガー耳障りな唸り声を上げるだけで、何も流しちゃくれなかった。それでも彼女はラジオのスイッチを入れ忘れるようなことは一度もなかった。僕が急病に倒れた、その夜でさえ。
 僕は一度ラジオの奴の頭を軽く叩きながら、彼女がなぜそんなことをするのか訊ねてみたことがある。勿論、老いさらばえたラジオが答えるはずもない。だがそのときふと気になってラジオの背面を覗き込むと、人の名前がマジックで書かれていた。擦れた字で、名字なんかはほとんど消えかかっている。それでも何とか判読はできるようだった。
 男の名前だった。
 僕はショックだった。男と彼女が今現在どんな関係にあるかは分からないが、男の名前が書かれた物言わないラジオのスイッチを入れ続けるなんてことは、世の中にありふれたことなんかじゃないってことぐらいは分かった。
(夢かい? 毎日見てるよ。もうすぐ春だろう。君は桜の樹の下で待っていて、僕は遅れて駆け寄るんだ。それで、君の鼻の頭に落ちた花びらをそっと摘まんで、君を抱きしめる。二人で顔を上げると、桃色の霞のような花の合間からきらきらと陽光が散るんだ。ああ、太陽ってこんな近いんだなって思うと、目が覚める)
 彼女はキャベツを切り終えると、パン粉などをまぶした豚肉をたっぷりの油の中にくぐらせていく。油が弾けて耳障りな音を立てた。彼女はこの肉が揚がる音を聞くとたまらなく食欲がわくそうだ。僕にはちょっと信じられなかった。焼く音だって酷い音なのに、油で揚げるなんて堪らない! 生命への冒涜にしか思えなかった。
 菜箸で見えないオーケストラの指揮をとるように、柔らかくも力強い捌き方で振りながら、彼女はカルメンのトレアドールを口ずさんだ。ご機嫌な証拠だ。
 トンカツが揚がると、彼女はコンロの火を消して、リビングの炬燵テーブルの上に広げられたままのノートパソコンや、びっしりと人物相関図や設定が書かれたメモ帳などを片付けようとした。
 僕は首を伸ばして画面を覗き込もうとした。
 するとそれに気づいた彼女が「こら、やめてよ。見ちゃだめ。まだ完成してないんだから」と口では咎めながら、目は優しげに笑んでいた。
(完成したら見せてくれるのかい)
 僕は不平そうな声を上げる。
 ふふ、と彼女は可笑しそうに笑って、「あなたが主人公なんだもの」と僕の頬を小突いた。
(僕が主人公だって。そいつは楽しみじゃないか)
 半ば嫌味っぽく言ってやった。
 どうせぐうたらで、愛想もなくて、何の役にも立たない宿六として書いたんだろう、と思ってしまう。
 だって、僕は何もできない。仕事をすることも、彼女の代わりに炊事洗濯などの家事を担うことだってできない。本当の意味で彼女の話し相手になることもできない。無力なんだ。
 隣に住んでいる友人とそのことについて話すと、「おれたちはそれでいいんじゃないか。そんな生き方もあるさ」と歯牙にもかけない様子だ。話にならないからそれ以降は当たり障りのない世間話しかしていない。
 彼女は小説家で、三年前に新人賞をとってデビューした。今では文芸誌に連載をもっている。出版社からその連絡がきたときの彼女の喜びようと言ったら。今でも目に浮かぶ。スマホを放り投げ、両手を上げながら飛んできて、僕に抱きついてしつこいくらい頬ずりしていた。涙声で「夢って叶うんだね」と何度も繰り返していた。
 あのとき、僕も嬉しかったけれど、心の片隅が氷のように冷えていく気もした。彼女が遠くへ行ってしまったような疎外感、寂寥、自己嫌悪。そうした負の感情が僕の中に腕を組んで居座って、どんどん頑なになっていった。
(そう。僕は君なしじゃ生きられない。それを突きつけられるのが、どうしようもなく辛かったんだ。でも君は、そんな僕を理解してはくれなかった)
 彼女はノートパソコンをカラーボックスの中に入れて、ボックスに掛けたカーテンを下ろした。メモ帳はボックスの上に置いた。そこには色とりどりなドライフラワーがオイルに漬けられたハーバリウムのボトルが飾られていた。ドライフラワーの中には、彼女の名前の由来となった花もあった。
 ハーバリウムとは、植物標本だ。小学生くらいの男の子が虫をピン留めにして作る標本と同種のものだ。でも、そう言ったら彼女はきっと怒るだろう。ハーバリウムは美しく、昆虫標本は残酷。その差は何だろう。僕には分からない。
 僕は標本みたいなものだ。この部屋というボトルにオイル漬けにされ、彼女というピンに貫かれて、どれだけもがいてもどこへも行けない僕。狭いボトルの中でさえ、ピンのせいで自由が利かず、何もできない。ただ彼女を見つめ、彼女に抱きしめられ、食べて寝る。それだけの生活。
 それのどこに夢をみる余地なんてある?
 僕の夢は眠ったときの夢の中にしかない。なら、僕はずっと眠り続けていたい。夢の中でなら、僕は君と対等になれる。夢の中には生活なんかないからだ。
 彼女は夢を叶えて小説家になった今でも、その先の夢を語り続けている。隣で聞いている僕の心なんか知らずに、どこまでも夢というガラスの階段を作って、ガラスの靴を履いて駆け上がって行ってしまう。一歩でも踏み外せば、すべてが脆く儚く崩れ去ってしまうものだとは思いもしないまま。
 彼女はラジオをじっと見つめた。そして何を思ったか、ジュエリーボックスからガーネットのイヤリングを取り出すと、それをラジオの前に置き、更に冷蔵庫の奥で眠っていた期限ぎりぎりのビールをグラスに注ぎ、その前に置いて手を合わせた。
 僕はそれを黙って見ていた。彼女はしばらく目を瞑って祈りを捧げた後で、「さ、お昼にしましょ」と手を叩いて僕に向かって微笑んだ。
(僕の夢は、君になることだ)
 真っ直ぐに見つめた僕の眼差しを怪訝そうに眺めながら、「なあに」と彼女はトンカツの載った皿や味噌汁などを並べていく。僕が手を出そうとすると、きりっと睨みつける。
(君は知らないだろう。僕も物語を編むんだ。君が考えつかないような奇想天外な物語をね。でも、僕には書く術がない。頭の中で緻密に編んだ先から、忘却の霧の中に解けて消えていってしまうんだ)
 彼女は冷蔵庫から緑茶のボトルを取り出すと、テーブルの上の、マリメッコの柄のマグカップに注いでいく。
(残酷だとは思わないか。僕には才能がある。でも、それを形にする機会すら与えられてないんだ。君と僕、何が違う?)
 いや、違いは分かっていた。はっきり過ぎるほど。僕と彼女の間には越えることのできない広大な深淵の谷が隔たっているのだ。
 僕は彼女に向かって喚くのではなく、諦めて踵を返し、自分の収まるべき、ぬくぬくとした温かい真綿の中へと戻っていくべきなのだ。そしてすべてを忘れる。そうすれば、僕は幸福の中で緩慢に死んでいけるだろう。
(でも、僕は生きていたい。そんな惰性の生じゃなく、燃えるような生を)
 幸福に目を閉ざされ、時間を消費していくだけの生き方より、彼女のように夢という難攻不落の城壁に向かって、滑稽なほど必死にしがみつき、馬鹿げて見えるほど愚直に城壁の縁に手を伸ばす、そんな生き方に憧憬を抱いた。
 城壁はただでさえ高くて固いし、冷たいのに、矢だの石だのお湯だのが飛んでくる。それでも彼女は手を伸ばすのだ。上り続ければいつか城壁の中に辿り着くことを強く信じていた。その生き方は僕にとって太陽のように眩しいものだった。手をかざし、目を細めなければそちらを見ていられないほど。
 だからこそ、強く焦がれるのかもしれなかった。
(君のように生きること。物語を紡いで、多くの人へ届けることで生きていくこと。それが)
 彼女は食べかけていたトンカツを皿の上に戻して、僕の両脇の下に手を滑り込ませると、勢いよく引き寄せて頬ずりをする。
(僕の夢だ。叶うことのない、でも、絶対に叶えたい夢)
 僕も頬を擦り返した。ひげが当たって鼻がくすぐったいのか、彼女は鼻を鳴らして、そしてくすくすと笑った。
 僕は彼女の手の中からするりと抜け出すと、カーテンに爪を引っかけて駆け上がり、レールの上を走った。そしてカラーボックスを射程に捉えると跳躍し、ハーバリウムのボトルをひっくり返しながらボックスの上に着地し、メモ帳に繰り返し爪を立てた。
「あっ、こらっ!」
 彼女が真剣に怒っていた。声に余裕と労りがない。両拳を握りしめているところを見ると、結構なお冠のようだ。
 転がり落ちたハーバリウムのボトルは割れ、オイルがじわじわと床に広がっていった。ガラス片の中に横たわった色とりどりの花は、ドライフラワーとは思えないほどに瑞々しく、生々しかった。
 尖ったガラス片に、小さく僕の顔が映っていた。毛むくじゃらで、ひげがぴんと伸び、灰色の目はらんらんとしていた。耳が立っているのは、緊張しているからだ。
 ご機嫌をとるようにごろごろ喉を鳴らしてみせると、彼女はため息を吐きながら首を横に振った。
「そんな声出したってだめよ」
 許す気はないらしいな、と吊り目がさらに吊り上がって僕を睨んでいるその眼差しで確かめると、開き直ってメモ帳を踏みつける。
(でも、たまには怒らせたっていいだろう?)
 僕は得意げに胸を張って鳴き声を上げてみせた。彼女を嘲笑うかのように尻尾を左右にゆっくりと振った。
(これも僕が夢を叶えるためには必要なことなんだから)
 メモ帳に刻んだ爪痕は、僕が夢への一歩を踏み出した、その足跡でもあった。

〈了〉


僕にだって、物語ることはできるんだ!

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