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荒野の果て、記憶の果て


■荒野の果て【掌編小説】

 時計は八時を回っていた。血の気が引くのと同時に、体は瞬時に覚醒して隅々まで血を巡らせ、筋肉を奮わせて動き出していた。
 ベッドから跳ね起きて寝室を飛び出すと、カーテンが閉じられ、微かな陽光だけが漏れている薄暗いリビングに向かって叫んだ。
「寝坊! めしは!」
 待っても返事がないことに苛立ちが募り、壁を叩いて寝室に戻ると、スーツに着替えた。濃紺のニットタイを選びかけて手を止め、その隣の紫紺のシルクのタイに手を伸ばした。
 ネクタイを結びながら廊下に出ると、妻が寝巻姿でひどい乱れ髪を気にすることもなく、額を押さえながら白い顔で立っていた。
「頭が、頭が痛いの」
 そう言う妻の声には感情がこもっていなかった。初めて舞台に立った朗読者のように、夢見るような、上の空の声だった。
「そうか。で、おれのめしだけど」
 妻は私の言葉を無視して、「頭が痛いの」と、壊れたレコーダーのように繰り返した。
 私はかっと頭に血が上ったが深呼吸して抑えて、「子どもたちは」と話題を変えて子ども部屋の方を見やった。
「頭が痛いの……。子どもたちはまだ寝てるわ」
「学校はどうするんだ」
 妻は不愉快そうに顔をしかめる。顔の中央にしわが寄った、そんなしかめ面ができる女なのだと、改めて思った。
「そんなきいきい叫ばないでよ。頭が痛いのよ。子どもたちは休ませるわ」
「おいおい。まだ小学生だからって、一日遅れれば、勉強に影響が出るだろう」
 親が寝坊したから休ませるなんて怠慢、許されはしないし、本人たちのためにもならない。そう思って私は子ども部屋に踏み入って起こそうとドアノブに手をかけようとした。
「知らないわよ! 頭が痛いんだって言ってるじゃない!」
 妻は般若の形相で私と子ども部屋の間に割って入ると、私の手を掴んで爪をたてた。女の細腕の力とは思えない強さで掴まれ、妻の爪が私の手に食い込んで血が流れていた。呻き声を上げ、私は慌てて下がる。
「頭が痛いのよ。あなたは早く仕事へ行ったら?」
 妻は私に背を向けて、子ども部屋の扉に額をぴたりとつけて立ち塞がった。多分、梃子でも動かないだろう。
 私は妻に向かって震える唇で言葉を紡ぎかけ、だがそれを飲み下して、踵を返した。
 恐らく、妻は何度も私に向かって叫びたくなる言葉を飲み込んで、消化して、消化しきれなくて、とうとう腹を壊してしまったのだろう。今妻から私に対して吐き出される言葉は、胃液をまとった腐敗した言葉だ。私にそれを聞く覚悟はない。
 私は玄関の扉を開け、いつもより全身を包む陽光が強いことに気づいた。あまりの強さに目も眩み、視界はホワイトアウトしたようで、何も見えなかった。
 乾いた風が左から右、西から東へと吹き荒んでいる。風には細かい砂塵が交じり、ぴしぴしと肌に打ちつける。焼けた砂の臭いがした。どこか意識が遠くなるような臭いだ。陽光の熱さを感じる。肌の上の水分が蒸発し、油分が燃えているような気がする。
 視界が定まったとき、目の前にあったのは赤銅色の大地が広がる、荒野だった。
 振り返ると、玄関はおろか家も消えていた。住宅地に立っていたはずの私は、なぜか荒野に立っていた。
 スマートフォンに着信があり、見ると職場からだった。出ると、係長が「出社? 休み?」と倦んだ声で訊ねるので、「今、荒野にいるのです」とありのままを伝えた。すると、「嘘つくならもう少しましな嘘をつきなよ。もう来なくていいから」と早口にまくしたて、電話を切られた。慌てて折り返そうと電話をかけると、圏外だった。そしてどれだけ待っても、その圏外が晴れることはなかったし、家も現れなかった。
 喉が渇いた。口の中がねばつく。かと思うとその粘性すら奪われてからからになる。
 家なら、蛇口をひねれば簡単に渇きなど潤せるし、外にいたって自動販売機がある。
 でも、ここは見渡す限りの荒野だ。金など意味をなさない。無人の、獣の姿もない。虫ならいるかもしれないが嬉しくもない。
 背広を脱ぎ、ネクタイを解いて投げ捨てると、タイは風に乗ってどこかへ飛んで行った。
 方向も行く先も分からない。それでもあてどなくとぼとぼと歩いていると、地平の果てに陽光を受けてきらきらと光るものが見えた。目を凝らしてよく見ると、それは剥き出しの水道管と蛇口だった。
 私は走った。岩に足を取られて転び、頬をすりむいても、立ち上がって蛇口めがけて走った。
 荒野の真ん中にある蛇口に果たして水が通っているのかとか、そういう常識的なことは思考の埒外に置いた。この状態が既に非常識なのだ。荒野の蛇口からだって、水が出てもおかしくない。
 だが、どれだけ走っても蛇口までの距離は縮まらなかった。走れば走っただけ蛇口は等しく遠ざかり、私の渇きばかりが募っていく。
 やがて気力も体力も尽きて立ち止まったとき、蛇口は蜃気楼のように消え、私は膝から崩れ落ちて仰向けに倒れた。
 風と砂に嬲られ、私の体は削られる。がりがりと削られて砂になった私の肉片は荒野の中の砂のどれかになる。そうして私の肉も骨も内臓も削られ尽くして、最後の一片が舞い上がった。
 私は無となり、後には荒野だけが残った。

〈了〉

■記憶の果て【映画の記憶】

前段で小説の方を読んでいただいた方、ありがとうございます。
後段は前段の小説と絡めて、映画についてのエッセイを。

私は荒野に対して憧れがあります。
草木などほとんどない、砂と岩石ばかりの荒野を見ると、不思議と懐かしく思えてくるのです。

そこで荒野の場面が印象的な映画として挙げたいのが、
『パリ、テキサス』
です。

私も見たのがだいぶ昔なので、記憶が朧気で、上の小説の「私」のように荒野で蜃気楼を追うように、記憶の果てを探ってみたいと思います。

冒頭から荒野のシーンだったことは妙に焼き付いています。痩せた男が、いかにも疲弊した様子で蛇口に辿り着く、そんな出だしだったと思います。
荒野感満載なのは出だしだけで、後は父親と、再会した子どもの交流が描かれ、やがて母親の行方を掴んで旅に出るロードムービーです。

でも、荒野のシーンが強く頭に残ってるんですよね……。見ているときの感情までありありと思い出せるようです。
「ああ、いいなあ、この荒野。いいなあ」
そんなことを思ってワクワクしながら見たものでした。

他にも父親が戸惑いながらも子どもと接していくうちに親しくなって、学校に迎えに行く場面とか、旅の道中とか、母親の居場所を見つけて、マジックミラー越しに電話をする場面とか、いい場面はいっぱいあるんですけど。

でも、荒野なんですよね。私の場合。

なぜなんだろうって、自分でも不思議なんです。荒野とは無縁な人生なわけですから。他にも荒野が出てくる映画っていっぱいあると思うんですけど、見るたびいいな、ってなるんです。

砂漠じゃダメなんです。荒野なんです。
岩石礫々(すみません。勝手に作った言葉です)とした感じ。丈の低い木に、まばらな草があって、道がどこまでも伸びていて。
そんな荒野。ああ、荒野。

上の小説もそんな荒野と同化する「私」で終わるのはそんな心理があってかあらずか。何か原初の記憶とでもいうものが荒野に対してあるのでしょうか。

二段構成なので少し長くなりましたが、
もしいい荒野(?)が出てくる映画をご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。

それでは、私も置き忘れてきた記憶を探しに、荒野の果てへと参ります。
みなさまも、心囚われた場所に、記憶を置き忘れることなどなきように。

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