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『すべての月、すべての年』 読書会 #3 (2023.10.22)

9月から3回連続で開いてきた読書会が最終回を迎えた。
次はまた方法を少し変えてやっていこうと話している。

今回もわたし(主催者、九店主)、あずさん(主催者)、夫(九店主)の3人。
〈今回の本〉はルシア・ベルリンの『すべての月、すべての年』。
大好きなルシア・ベルリンだ。

ルシア・ベルリン/岸本佐知子訳
『すべての月、すべての年 ルシア・ベルリン作品集』(2022、講談社)
本書の底本となる作品集は2015年に米国で出版された。すでに24篇が『掃除婦のための手引き書』(2016)で翻訳され、本書には残りの19篇が収められた。といっても「アルバムで言えば捨て曲なし、どの一つをとっても無類に素晴らしい」作品ばかり(訳者あとがき)。どの頁でもいいから読んでみて惹かれる文章があれば、きっとルシア・ベルリンのファンになる。

『九(5号)』


女であること


まず夫が、本書には「女のひとの考え」みたいなものが詰まっていて、そこに魅力を感じたと言った。
最近夫はことあるごとに「男のひとはもういい」と言う。これからは女のひとの時代だとか、男はろくなことを考えないとか云々……。
読書会の最後でもう一度女性にまつわることが話題にのぼった。あとで触れる。


なぜ好きなのかを言うのはとても難しい


「これから何度も読むだろう小説になった。とても好きだった」と開口一番にあずさん。でもなぜそうなのかを言い表すのは難しい。そこで、どんなふうに読んだのかを話してくれた。

ルシアの描く登場人物のさりげない仕草や言葉遣いが、誰かを想起させたという。その度にそのひとのことを考え、ぼーっとしてしまったらしい。
わずかなセンテンスで登場人物の性格や特徴を浮かび上がらせ、読者に身近な誰かを思い出させるルシアの描写力。あずさんは、そうしたところにグッときたという。
それにしても、一方的な思慕というと言い過ぎかもしれないけど、現実に再会したわけでも連絡がきたわけでもないのに、その誰かを想って考えをめぐらせてしまうというのは、素敵な読書だと思った。


ルシアの眼差し


人物描写の妙。ルシアの描写力がすごいと書いたけれど、その人物を言い表す「量」がちょうど良い、ひとや物事を見る目が透明で偏っていないという話にもなった。
豊かな感情を備えつつ、冷静に見つめる目がある。それがかっこいい。あずさんは何度 も「かっこいい」と言った。

でも夫は、偏りがないわけではなく、ホワイトカラーや知識人を斜め上から見ている目もあると言う。
いや、ホワイトカラー/ブルーカラーという分け方は少し違う。マジョリティ/マイノリティ?という話にもなる。

冒頭に出てくる従姉妹のベラ・リンは金持ちだが、やけにテンションが高く、他の登場人物もベラ・リンをわがまま、軽薄、能天気と言う。でもルシアは違う。何も言わなくても全てを察してくれ、一緒に泣いたり笑ったりしてくれる彼女ほど物事をわかっているひとはいないと言う。
他のひととは違う眼差しがルシアにある。誰に対してもフラットというより、多くのひとが敬遠したくなるようなひとにこそ心を寄せる。

「物事を見る視点が透明で、偏っていない」とあずさんが言ったのは、おそらくホワイトカラー/ブルーカラー、マジョリティ/マイノリティ、金持ち/貧乏といった二項対立に絡め取られることなく、ルシアが独自の視点で物事を見ているからではないかとわたしは思う。
貧しさが不幸でもなければ、少年院に入っていた少年がバカなわけでもない。どんなひとの中にも多様な面があり、遭遇する出来事や出会うひとによって、自分すら知らない一面が顔を出す。ルシアの目はその一瞬を見逃さない。

自分ならただ通り過ぎるだけで気にも留めないようなことが書いてある。それはルシアのひとを見る目、物事を観察する目がそうさせている。普段なら通り過ぎてしまうひとの振る舞いや周りの光景に目を向けさせ立ち止まらせる力が文学にはある、と夫が話した。


繰り返すほどに


一文一文を丹念に読み込むことと、物語を楽しむことを両立できない、と夫。ストーリーを追うことに集中すると、文章を味わえなくなるという。

たとえば、音楽ならどうだろう?という話になった。

ルシアの文章は、なんとなく良い音楽を聴いているのに近い気がする。ストーリーの運び方、静と動、物語のテンポ。上述した文章の長短がちょうど良いというのも、音楽的な感覚と言えなくもない。頭で読むというより感性で読んでいるような感じ。

わたしたち3人とも、同じ音楽を繰り返し聴いて、その良さがわかってくる体験をしたことがある。読書の場合はどうか。
一度読むとわかった気になり、何度も読み返すことがあまりない。難しい本は別だけど、物語は一度読むとわかった気になってしまう。

読書会をして良かったことのひとつは、一冊の本、いや、ひとつの文章でさえ、何度も読み直し、その意味をじっくり考えるようになったことだ。繰り返し読む度に滲み出てくる味わいのようなものを知ることができた。

前回の『未来の回想』がまさにそうで、何度も読んで考えを言い合ううちに、これまで手の届かなかった深淵に触れられた気がした。

音楽を構成するひとつひとつの要素を分けられないのと同じで、物語も一文一文が重なり全体をかたちづくる。部分(表現や技巧)に目を向け楽しむこともできるが、全体(物語)を見渡せた方がより楽しさが増すようにわたしは思う。
繰り返し読むことで、はじめに見えていなかったことが徐々に見えてくることがある。解像度が上がる感じだ。同じ本を何度も読む楽しさはそこにある。


女であること(つづき)


冒頭で触れたが、なぜか女のひとの考えることや女のひとが書く物語に魅力を感じると、夫。わたしも同意見だった。どうしてそうなのか。例えば、冒頭の「虎に噛まれて」の主人公と従姉妹のベラ・リンの関係。なぜ女同士は良いのだろうという話になった。

小さな子を連れ帰郷する主人公は、若くしてシングルマザーになっていた。その上、お腹には前の夫との子を宿している。それを知ったベラ・リンは、すぐさま主人公に「堕ろしなさい。それ以外にないわ」と言う。若干19歳。これから強くて優しくまっとうな男を見つけるのに、子どもが二人いてはダメだと諭す。しかしテキサスでは堕胎が許されない。そこでベラ・リンは南の国境を越えメキシコへ行き、手配した病院で堕胎手術を受けることを提案する。「そんなに痛くはないの。生理痛と変わらない感じ」と言ってお金を渡し、送り出す。

しかし、主人公がメキシコの病院で見たのは、恐怖で半狂乱になった若い女の子たちだった。どの女性にも、レイプ、近親相姦、その他諸々の悲惨な出来事が背景にあった。
主人公は決意して戻ってくる。そんな主人公をベラ・リンは無言で受け止める。一緒に泣いて、それで終わりだ。

男同士では、どうもこうはいかないという話になる。男はカッコつけるから?いや、たぶんそれだけでなく、女を取り巻く社会の厳しさ、女しか経験できない妊娠や出産、中絶が、女同士を連帯させるのではないか。
女性はいまだにマイノリティの側にある。人数ではほぼ半々なのに、趨勢を占める考え方や価値観は男性の方に強く傾いたまま、あらゆる権力や決定権も男性側にある。弱き者というより、周縁だとか埒外だとか、世の中心にいないからこそ、誰かのためだとか社会のためだとかいって背負わなければならないものがない。だからこそ、自分や身近なひとのためにまっすぐな行動がとれる。そういうことだろうか。
そうした現実を生き抜くたくましさを備えながら、酒を飲み寂しさをまぎらわす。ひとの表裏を知ってしたたかにやり過ごしているようで、愚直に行動してしまう一面もある。
ルシアの魅力は、強さと弱さ、思慮深さと軽薄さ、優しさと薄情さといった、ひとの矛盾する部分をそのまま受け止めようとするところにある気がする。とりもなおさずそれがルシアにとっての書く意味でもあったかもしれない。書くことで彼女は、現実のままならさを受け入れようとしていたのではないだろうか。


最後に


3人のお気に入りは、本書のタイトルにもなった「すべての月、すべての年」だった。中年の主人公エロイーズ・ゴアは著者自身か。寂しく、くたびれている。けれども、メキシコの海とそこに生きるひとびととの出会いが心を開かせ、救いとなる。海の中、漁師たちの住処、素通しの部屋、水面の鏡……海辺の情景を想像するだけで心地良い。
全編に乾いた風が吹いている。湿気の多い日本のわたしたちには憧れの風だ。


木谷恵(九店主/読書会主催)+ 佐野梓(読書会主催)


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