西へ ④ 霧の古都で
深い霧の立ちこめる冬の朝。
冬夜を聴きながら路地をひとり散策していると、中肉中背の男が先に歩くのが見えた。
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早朝に着いた古民家を改築したようなホテルのエントランスに貼られていた古い映画のポスター。
伝統芸能の民族的衣装に身をまとい、広げた扇子を胸元にこちらを見つめる、捨て子から京劇のスターへと登り詰めた主人公を演じたレスリー・チャン。
僕が覇王別姫を観たのは俳優が香港の最高級ホテルから空に墜落して10年以上経ってからだ。
京劇は18世紀、清の時代に出来た古典演劇のひとつで文化大革命によって弾圧されたがその後、伝統文化として見直され、今では国劇の地位に回復した。
元を辿ると、ユネスコ無形文化遺産に登録されている昆曲という崑劇(こんげき)から派生した演劇らしい。
昆曲の発祥の地は東洋の水郷とも言われる蘇州である。
運転で疲れたのか一緒に来た友人はまだベッドの中だろう。
僕は友人を残してひとり朝の散歩に出かけた。
朝の6時過ぎだがあたり一面霧で覆われて2,3m先くらいまでの視界しかない。
先に歩く男も少し離れるだけで影形消えてしまい、僕が少し歩調を速めると、また現れる。
湿度が高くて濃い霧が古い家々を包むのは僕の地元の鎌倉でもたまにある。
ほとんどの建物が白壁で、これほど濃い霧だと白の世界に迷い込んだ錯覚に陥る。
時々、原付バイクとすれ違ったくらいでこのご時世のせいなのか、早朝だからなのか、人影も見当たらない。
4000年前には既に文字でこの土地は記録されており、2500年前の三国志の時代に呉の孫権によって都は繁栄した。
長い歴史を持つ古い街並みはところどころ時代から取り残されている。
ここでのG-Shock の針の動きが指し示す時刻は《何も変化していない》ことを僕に知らしめるのために存在している。
男を追うかのようにして濃霧の路地を歩き続けていると、何かの線を知らず知らずの間にまたいでしまって日常とは遠くかけ離れた向こう側の世界に迷い込んだ気分になった。
だんだんとあたりの店が開け始め八百屋の店先からはスープの良い香りが漂って来る。
*
生活音が霧を少しずつ侵食して、僕は橋のたもとまで来ていることに気が付いた。
前を見ると、先を歩いていた男も霧とともに何処かへ行ってしまったあとだった。
幻想の水郷は、オルハン・パムクのイスタンブールの物語、無垢の博物館を読むのにうってつけの場所かもしれない。
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