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ヘッセとクリムトのダナエ

シャボン玉

長い長い年月の研究と思想の中から
遅くなって一老人が晩年の著作を
蒸溜させる。そのもつれたつるの中に
彼は戯れつつ甘い知恵を紡ぎこんだ。
あふれる情熱に駆られて、ひとりの熱心な学生が
功名心に燃え、図書館や文庫を
しきりにあさりまわって、
天才的な深さのこもった青春の著作を編んだ。

ひとりの少年がこしかけて、わらの中に吹きこむ。
彼は色美しいシャボンの泡に息を満たす。
泡の一つ一つがきらびやかに讃美歌のようにたたえる。
少年は心のありたけをこめて吹く。
老人も少年も学生も三人とも、
現世の幻の泡の中から
不思議な夢を作る。それ自体は無価値だが、
その中で、永遠の光がほほえみつつ、
みずからを知り、ひとしおたのしげに燃え立つ。

『ガラス玉演戯(下)(新潮文庫)』ヘルマン・ヘッセ著
高橋健二 訳

この詩が僕をむかし掴んだ頃のように、今、僕を捉えて離さない。かつての頃よりも深いところで僕はこの詩が好きであることに最近ようやく気がついた。

ほんとうのことを言えば僕はヘッセよりもリルケの方が圧倒的に好きだった。それでもいくつかのヘッセを、少年の頃、好きになった。『郷愁』『春の嵐』『車輪の下』『デミアン』『シッダールタ』『ガラス玉演戯』……。
いずれにせよ、僕がそれらの本を読んでいることを誰かに知られたくなかった。
和田塚から七里ヶ浜まで、江ノ電に揺られる途中、長谷駅で同級生のほとんどが降りた。長谷から七里ヶ浜まで僕は他人の目を気にすることなくリルケ、ゲーテあるいはヘッセの詩集や小説をバッグから取り出して読めた。
『ガラス玉演戯』の下巻に書かれたこの『シャボン玉』という詩に僕は惹かれて、電車の窓に映る緩やかな風景と僕の顔を見ては、シャボン玉の中の世界がこちら側なのか、あるいは向こう側なのかとりとめもなく空想に耽ったのを覚えている。
神経質で繊細なのに独我論的な自己主張は一人前に持っていた頃だ。それは今とそう変わらないかもしれないけれど。『クヌルプ』やいくつかのエッセイは読むことなく、ヘッセら詩人たちを途中下車しそして通過した。

───孤独でありながら孤独であることを意識することのなかった少年時代を思い出しながらヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』を読み終えたとき夕陽がレースのカーテン越しに差し込み長い影をつくる部屋のなかで、僕は、あるがまま雨のゼウスを受け入れるダナエの官能的なクリムトのポストカードをぼんやりと眺めていた。

アルゴス王アクリシオスの娘、ダナエ。予言───娘が産む子どもによって殺されるであろう───を恐れた父により、青銅の塔に閉じ込められたが、ゼウスは黄金の雨になって塔に入りダナエと交わった。そのようして生まれたダナエの子がペルセウスである。
父アクリジオスは娘と孫を悩んだ末に自分から遠ざけるため箱に乗せて海に流した。

このギリシア神話はいつか読んだギリシア悲劇『アンティゴネ』(ソポクレス著)に登場し、印象に残っていた。

霧のような雨が降る夕暮れ、白い大理石の階段と柱の建ち並ぶ高い青銅の塔にひとり横たわり眠る女とその寝顔に魅了される男。魂同士が女の夢の中で共鳴し、響きながら目覚めとともに、あるいは、子どもを産むとともに共鳴した響きが遠ざかっていったかもしれない。

ダナエが愛の幸福を感じたのは暗闇、黄金色の雨が降る暗闇の中であり、ゼウスの雨が彼女を輝かせ、ダナエはペルセウスを孕った───ひととひとが偶然を共有し、愛の幸福と錯覚する───あとには長い孤独がつきまとう。それでも絵の中のダナエは微笑みを浮かべ、誰かに所有されたり所有したりすることなく、どこまでもダナエはダナエだ。

ヘッセの詩「私はおまえを愛するから」はまるでダナエのための詩のようにも聴こえる。

私はおまえを愛するからこそ、夜
こんなに狂おしくおまえのところに来て、ささやくのだ。
おまえが私を決して忘れることのできないように、私はおまえの魂を持って来てしまった。

今はもうおまえの魂は私のもとにあり、すっかり
私のものになっている、よきにつけ、悪しきにつけ。
私の狂おしい燃える愛から
どんな天使もおまえを救うことはできない。    

私はおまえを愛するから
『ヘッセ詩集(新潮文庫)』ヘルマン・ヘッセ著

ゼウスですらダナエを現前する愛として所有することは叶わず、ダナエの魂の崇高さを讃美するかのように雨となって彼女自身を輝かせるしかできないのかもしれない───1907年から1908年にかけてクリムトがゼウスとダナエの官能を描いていた頃、ヘッセは『車輪の下』(1906年)を刊行したあとだった。
第一次世界大戦(1914年7月28日から1918年11月11日)の足音はまだ聞こえていない時代かもしれない。

『クヌルプ』は第一次世界大戦下の1915年に刊行され、戦火を越えて読まれ続けた。

年上の娘への初恋が裏切られた時から、クヌルプの漂泊の人生が始まる。旅職人となった彼は、まともな親方にはならなかったが、自然と人生の美しさを見いだす生活の芸術家となり、行く先々で人々の息苦しい生活に一脈の明るさとくつろぎをもたらす。最後に雪の中で倒れた彼に神さまはクヌルプは彼らしく生きたと語りかける……。
永遠に流浪する芸術家の魂を描いた作品である。

あらすじ 新潮社『クヌルプ』ヘッセより

父親は子どもに鼻や目や知力をさえ遺伝としてわかつことができるが、魂はそうはできない。魂はすべての人間の中に新しくできたものだ。

『クヌルプ(新潮文庫)』ヘルマン・ヘッセ著

『クヌルプ』を読み終えていくつかの作品をパラパラとめくったいたことに驚き、それとともに孤独であることと魂が孤独のがらんとした世界に浮遊していることを痛いほど感じ取り、あれから僕の置かれた環境が、そして流れた月日が感慨深く思われた。

少年の頃、魂の孤独を孤独として意識しなかった。
友人たちの死によって、僕は「魂は唯一無二であり共鳴することはあれど交わることは決してできないのだ」と思い知らされた。

僕にとって、彼らは曲がり角を曲がって見えなくなっただけなのだ。
彼らのほとんどが自分自身であろうとしたひとたちだったと僕は思う。
自分自身であろうとすると、追放されるか離脱するしか選択肢がないかのように思えたのかもしれない。

経験の浅い十代後半から二十歳前後では、とくにそうだったのかもしれない───それはヘッセの後期作品をあのとき読んでもよくわからなかったこととどことなく繋がる。
僕はその当時「愛されたい」と願う我の強さこそが「自分自身であろうとすること」だったのだろう。

無条件に「愛する」ことを知って、「自分自身であること」が孤独を必要とし、その孤独は心の中で折り合いをつけながら向き合うしかないと知って、追放も離脱も苦しみの上に成り立つことを理解できるように少しなったように思う。

だから久しぶりのヘッセのことばが心の奥深くまで浸透していくのを僕は感じた。

川の流れをただひたすらに見つめ、向こう岸の行き交うひとたちや頭上の鳥たちをひたすらに見つめ、彼らの声を傾聴したら、やがてそこに僕が愛されたいと願ったひとたちの魂の声が聴こえてくるのかもしれない。
いまでもきみの───決して聴くことのできない───声を聴きたくて書いている。

孤独を抱いて眠ることと、空虚を飲み込みながら、いま目の前にいる僕の愛するひとたちと抱き合って眠ることを気付けば同時にしている。

海鳴りが魂たちの声のように思える。
はっきりと聴き分けることは難しい。
けれど僕の中で自分自身であろうとするとき、心の中で、ひとりぼっちで膝を抱えて海を見つめながら、となりで眠る娘とその向こうの妻を見ていると、僕は混乱するのだ。
すると誰かに問い詰められる。
《お前はいまを、自分自身を生きているのか》

孤独を孤独として、たったひとりの僕を受け止められるのは僕自身でしかないのだとようやく気が付き、自分自身であり続ける孤独を強く意識するようになって、ヘッセの作品たちの持つ深さをようやく理解できるようになった気がした。

この一片の世界は彼のものであり、このうえなく深い親密さでなじみ愛したものであった。

『クヌルプ(新潮文庫)』ヘルマン・ヘッセ著 
訳 高橋健二

ダナエの魂を輝かせることができたゼウスの雨になりたい。
愛することで、僕なりに僕の友人達や家族達を輝かせたいのだ。

主よ、僕を僕から解放してください。
ありのままのあらゆるものを愛したい。
自分自身を生きるとき、孤独にならざるを得ないとき、あの曲がり角で消えたひとたちとまた会えると信じてありのままを受け止めていまを生きるしかない。

ひとは誰しもが孤独の旅人である。
傾聴すること。
ただ川の流れのような人生そのもの、ひいては歴史そのもの、土地そのものを諦観し傾聴することは、孤独と対峙し、誰かと真剣に向き合ってありのままに愛するほんとうの愛に打ちのめされねば成し得ないかもしれない。

ヘッセの『クヌルプ』の最後の場面はあまりにも美しく儚く、孤高だった。

ダナエもクヌルプも、ありのままに雨も雪をも受け入れた───過ぎ去ってゆくものたちをありのままに全身で受け止めて僕自身を僕の中で折り合いをつけなきゃいけない。

海を眺めたくなって、ポストカードをヘッセの『クヌルプ』の間に挟み、机の引き出しにしまった。

僕は海岸へと向かった。水平線のさらに向こうで少年だった頃の僕や愛おしいひとたち、どうしようもなく逢えないひとたちが僕に手を振り何かめいめいに言っている気がした。
彼らはもはや完全に孤高の旅人たちだろう。
自分自身であろうとし生きることは孤独の旅であるように思う。
どこかの曲がり角でまた出逢う気がする。
そうしてふと顔をあげると分厚い雲と海との隙間にひとすじの夕陽が見えた。

 ……ある点では、そしてまた思慮の浅い人々にとっては、現実的に存在しないもののほうが、存在するものより、ことばによって表現するのに、容易であり、責任を伴わないかもしれないが、敬虔で良心的な歴史家にとっては、まさにその反対である。すなわち、ある事物の現実的存在は証明することができないし、ほんとうらしくもないとしても、敬虔な良心的な人々が、それをある程度存在するものとして取り扱うことによって、存在と生起の可能性に一歩近づけられるような事物がある。そういう事物ほど、ことばで表現しにくいものはないが、また、そういう事物ほど、人々の目の前に示してやる必要のあるものはない。

『ガラス玉演戯(上)(新潮文庫)』ヘルマン・ヘッセ著

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