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Fight Club Chuck Palahniuk

いつだったか忘れた。ある大事な友人Kが亡くなって、その子と共通の友人と寮でファイトクラブを観ていた。

映画のあらすじはこうだ。
──
エリートながらも空虚な日々を送る男性が、ある日出会った派手な出で立ちの男にいざなわれ、異質の世界に足を踏み入れる。そこは男たちが己の拳のみを武器に闘いを繰り広げる、壮絶で危険な空間だった。そのファイト・クラブで、彼は自己を開放していく。
──

それでそういう雰囲気になって色々あって、そのあと目が覚めて、横で眠る友人がまるで知らない誰かに思えた。何もかも、空間そのものがとてつもない《俗》に思えてさっさと起きて帰ってくれたらいいのにと願っていた。それから数日後、友人とふたたび顔を合わせた時には、《俗》っぽいだとかそうした感覚を覚えなかった。
《俗》的な僕───寝た子と僕とその空間すべてが一体であるかのような、どこか死んだ友人に覗き見られているような、でもそのまなざしも実は僕自身のまなざしのような、不思議な感覚に陥った。

どうしてそんなふうにあのとき思ったのか、少し恥じた。
それからしばらくして、原著を買い、「あゝ、最後、映画と違うのか」という漠然とした感想と、ドッペルゲンガー的な何とも形容し難い感覚に襲われた。

Kが突然居なくなってから僕は何がしたいのかわからないことが多くなった。
決まった時間に起きて、決められたとおりに仕事をし、決まった時間には眠る───ささやかな楽しみ、喜び、悲しみや怒りを心の底から分かち合えたKの突然の不在と、その穴埋めのようなかたちだけの友人たち。

“If you don’t know what you want,” the doorman said, “you end up with a lot you don’t.”

—『Fight Club』Chuck Palahniuk

本当に求めているものが何なのかわからないと、際限なく本来なら欲しくないものまでいつの間にか手にしている(『ファイトクラブ』チャック・パラニューク)

喪失から、消耗だけのための資本主義的な欲望で虚無を埋めようとしても埋まるどころか砂漠は広がりオアシスはいつまで経っても遠くの蜃気楼でしかない。

昨日久しぶりに出張先のマンションでひとりファイトクラブを観ていて、ひととしてもどん底だったころを懐かしく思い出した。

“It’s only after you’ve lost everything,” Tyler says, “that you’re free to do anything.”
すべてを失ったあと、何もかもが自由になる───そうだろうか?
決められた日常とやるべき仕事があったから僕は生ける屍のようになりながらも息をなんとかできていたようにも思える。

そんなフィクションを考えながら電子書籍を探すと原著がKindleにあった。
ポチる───原著、家に帰ればあるのに。
本当に欲しかったんだろうか?

まあでも、名著だからいいだろう。昼飯を二回おにぎりにすればいい。

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