見出し画像

強く優しく

遠くの橋が壊され子どもたちの公園が攻撃された。
ひとはどうして他者に暴力的になるのか。
沈黙の自然に対してはひとは無力さを思い知るが人為的不条理に対しては反抗し続けねばならない。

高度な文明と科学技術を発展させた我々21世紀を生きるホモ・サピエンスはそれらをもってより一層傲慢になりパラドックス的にあらゆるものを後進し続けている。

けれどもそれら理性の暴走を持っても離れた惑星や恒星の変化をどうこうすることは今なお不可能であり、その影響をただただ受け入れるしかない。

何億光年も昔に、気の遠くなるほどに地球から離れた場所にある星、獅子座レグルスの近くの雲星の爆発がバタフライエフェクトのように月になんらかの影響をもたらしたとする。

ひとがそれを知るのはひとが星になり帰天した時かもしれない。

空間と時間の断絶、記憶の断片化。
星々の爆発を僕は考え、レグルスから月と太陽に愛を送ってみた。

遠くて近い断片化された誰かの記憶が視覚化されテクストたちが秋の木の葉のざわめきに乗って、天使が通る。

天の使いの様なギリシャ神話のふたりゼフィロスとニンフが西風に乗って聖ヤコブの貝からヴィーナスの誕生に薔薇の花びらを舞い散らせて讃歌した。

女神ホーラが匂い立つヴィーナスの髪にそっと触れながら風にはためく布で彼女を優しく包むだろう。

ルネサンス、15世紀、1486年にボッティチェリはこの様にしてギリシャ神話とキリスト教を融合させたかの様な、いわばカトリックへのささやかな挑戦ともみえる見事な絵を描いた。
それは時の権力者メディチ家を称えるものであったかもしれない。
けれども、空間と時間を超えたいま、僕がその絵を観て感じ取るのは愛と誕生そのものが美である事を讃歌し、宗教を超えたところにそれらが自然の中で在るということだ。

今世紀、あるいはその少しあと、大統一論が完成しひとつの数式───神の数式によって何もかもが立証される様になるかもしれない。

ひとが自然すらもコントロールしてしまう瞬間になるのだろうか。

何かしらの不条理によって断片化された空間と時間は決して元通りにすることはできない。
そこで生まれた傷跡はなんらかの形で残るが、悠久の時を経ると跡形もなく虚構の砂漠の一粒の砂に変わってしまう。

東日本大震災のあった2011年3月11日午後2時46分。

僕は16歳だった。

僕はひとりで16歳になったわけでもなく、28歳になったわけでもない。

色んなひとたちと交わり、乗り越えられない壁を主と僕の理性とを結びつけてやり過ごし、無の持つ果てしない豊かな世界へと誘われている。

ひとは孤絶してはいけない。
身勝手で暴力的な寂しい音のないブラックホールに吸い込まれてしまう。

身勝手ではいけない。
それは必ずひとを傷つけ、自分自身に跳ね返ってくる。
そして壊してしまったり断片化してしまったものを元の連続性のある円環的時間の世界から逸脱して直線的な有限の無機質で何も感じない世界へ自分自身を追いやってしまう。

ひとだけではなく、この世界に生きるすべての命の愛と誕生は讃歌すべきであり、決して破壊してはいけないのだ。

装飾音符は時として、慰めのためにも必要だろう。

小さな頃、祖父がヤスパースの『哲学の小さな学校』を説明しながらよく読んでくれた。
ヤスパースの思想を要約すると、認識の対象とすらならない実存に気づき自分の実存を確立する。その道程では乗り越えられない壁もあるが時間──カトリックでは主と理性との結びつき──が解決する。(※僕は勉強不足で間違えているかもしれない)

覇権、権力争いを率いる者は「自分」と対峙することを放棄する。肉体や意識は有限であり有限だからこそ尊重し他者との共存の在り方を模索すべきなのに。

ベルギー、メーテルリンク作『青い鳥』を思い出してみてほしい。
虚構に取り憑かれた者たちは余計なことに時間を割き、当たり前のことを踏みにじって目先の青い鳥に気づかず、捕まえることのできない鳥を求めようとし続ける。

二項対立ほど危険なものはないとも僕は感じる。
覇権主義の権力を手にしたものたちの道具のように思うからだ。

何かしらの事象によって断絶した空間や時間の傷は自然によるものならばゆっくりと回復へと向かうだろう。
しかし、人為的な事象によるものは、抜け出すことの困難な負のスパイラルへと向かわせる。そして抜け出せない虚無の荒野では時間は有限で直線的だ。始まりがあり、死によって終わる。ただそれだけが延々と続くだろう。

自然はそうではない。だから、時間が必要ではあれども、回復へと向かう希望の光が強い。

僕が風に吹かれてたゆたう葦であったとしても、強く優しくありたい。
優しいひとでいたい。

僕の精神がもしも円環的時間の流れの中で永遠を彷徨えるなら、僕のアトリビュートは家族であったら。
と願う。

「匿名にすることから守るアトリビュートが名前を浮き彫りにする」───『貝の続く場所にて』の著者、石沢麻依さんが本書の中で書かれていたことに、僕の海の鐘が共鳴した。
名前はラベルだがとても大事なラベルだ。
僕が灰になったら大事な家族の中で僕のアトリビュートが残りますように。

愛する故郷、愛する誰か。
誰にでもある。ひとだけではない。
自然界の命にはそれぞれそうしたものがある。

身勝手で傲慢な欲望は自身を含めてすべてを破滅させるが、謙虚さと愛と思いやりの欲望はすべてを創造しうる。

僕はそう信じたい。

曽祖母が晩年に描いた額の中の絵。
一瞬の永遠──家族の中で生き続ける精神の永続性を少し感じた。


Elle est retrouvée !
— Quoi ? — l’Éternité.
C’est la mer mêlée
Au soleil.

また見つかった!
何が? 永遠が。
それは、海と溶け合う太陽。
───ランボー

詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽と一緒になった海なのである。
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ

この記事が参加している募集

読書感想文

いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。