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ART of Sunday

娘を連れて公園と図書館と本屋さんへ行った。
残暑を時々感じる道すがら、蝶々やバッタと遭遇した。

娘が見つける度に、捕まえようと必死に追いかけて、その娘を僕が必死に追いかける。

まだ2歳未満とはいえども、ちょろまかとかなり行動的な娘。

「おてて繋いで歩こうね」

と僕が言っているそばから気になるものを触りに行く。
むしろ理解して歩いてくれたらかなり驚く。
行きたい方向に行かないと分かると、道路の真ん中でひっくり返るのはまだ可愛い方かも知れない。
とにかく、この数ヶ月で自己主張が強くなってきた。
それは、彼女に「自我」がしっかりと芽生えた証なのだろう───そう自分に言い聞かせて辛抱強く彼女をなだめる日々。

殿様バッタ?名前がわからないので殿と名付ける
「昆虫は成長の過程で脱皮し、神経系を破壊されるので、幼虫から成虫に多くの記憶を移すことができない。人間以外の哺乳類は学習によって獲得する後天的な能力より、持って生まれた先天的な能力が優先させ、人間と他の動物の決定的な違いは学習である」
『人間機械論』 ノーバート・ウィーナー著  みすず書房

これは言い換えると、

多くの余計な記憶を都合良く書き換える人間と今を生きる誠実な生き物の差

でもあるんじゃないかな。

記憶と学習によって新たなものを創造できるホモ・サピエンスの僕ら。

本当に新たなものを創造しているんだろうか?
結局は動物的欲望を満たすために、破壊しているに過ぎないように時々思う。

シンプルに今を感じ、大事にしていたら、他者を傷付ける余裕はない。

当たり前だけれど、戦争や紛争は合理的ではない。───欲望と感情の厄介さ。

動物の生死をかけた縄張り争いは理に叶う面が多い。

不条理の条理の為に「道徳」や「倫理」があるんだろうか。

自我がようやく強く芽生えた娘と殿との話に戻すと、娘はバッタを捕まえた。

正確には、握った、と言った方がいいかも知れない。

そうなのです。
握った。
バッタを。

握られた殿は小さな手の中で恐らく、

「あーーーーー!もう、ほんと、勘弁して。飛べなくなったらどうしてくれるんよ」

だと思う。

「あーちゃん(仮称)、そっと掴まないとバッタさん死んじゃうよ」

僕がそう言うと、彼女は手のひらを広げて、僕に見せてくれた。

その隙に、命拾いした殿は何処かへ飛んでいった。

殿にとってこの上なく不条理な瞬間だったに違いない。
娘にとっては、初虫捕り成功。
昆虫が苦手でありながらも親バカの僕にとっては、「あーちゃん、凄いな」。

シンプルに、あーちゃんと殿とのコンタクトのとき、力の強いあーちゃんが殿にそっと触れたら済むのだろうけれど、一歳九か月でそんなことがわかるわけもなく、

「いた!つかまえたい!」

である。

でも今回の体験で、あーちゃんは虫がいたら、そっと掴まないといけないことを学習した。

手で触れて握ったときの感触の記憶もしばらくは鮮明だろう。

けれど、これからたくさんの真新しい経験をしていくあーちゃん。

殿の感触は、もしかしたら、押し寄せる真新しいものたちによって埋もれていくかも知れない。

道徳や倫理は大人だと、「その時代の社会風潮に沿って、突拍子もないことをしない範囲」だとか、哲学を持ち出してくるかも知れない。

本当はもっともっとシンプルなものなんじゃないかなぁ。

ちいさなひとの視線に立つと世界が立体化し、それまでの平坦な風景が一気に色づき、秋の虫たちや草花、鳥たち、そして高くなり始めた空の囁きが聞こえた。

そんなことを取り止めもなく秋の空の下で思った日。

身長90cmのせかい──いつもの公園


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