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市民

 2022年3月13日、宮崎市中心部で原発に反対する集会があった。市民約250人が参加し、集会後にJR宮崎駅前から大通りをデモ行進した。そこで信じられないことが起こった。停留所にバスを停めさせるため、デモ隊を分断したのだ。それだけではない。歩行者用信号が青という理由で、デモ隊を止めて歩行者を優先させた。これには私も久しぶりに怒りを覚えた。いてもたってもいられず、男性警察官に文句を言ってしまった。
 「何をやっているのだろう」「何を訴えているのだろう」。偶然通りかかった市民に迷惑を掛けるからこそのデモだ、と思う。なにも私道を占拠しているわけではない。公道で、しかも道路使用許可を受けてやっているものだ(手数料を支払わなければならないこと自体問題だが、ここでは措く)。デモが市民の権利として保障されているのは、デモが民主主義にとって必要なものだからだ。デモ隊を優先させても、そんなに影響が出るとは思えない。車に乗っている人も歩行者も、たかだか数分、十数分遅れるだけではないのか。それさえも許容できない社会になってしまったのだろうか。
 作家のレベッカ・ソルニットは『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)で、「ごくふつうの人びとが言葉を発することができ…略…権力者に介入されることもない場所である街頭は、民主主義のもっとも大事な舞台だ。」(p364)と書いている。その通りだとおもう。であれば、街頭でのデモすらも迷惑なものとされる日本は民主主義国家と言えるのだろうか。
 どの街に行っても、幹線道路沿いにはショッピングモールや大型店が並ぶ。バスも走ってはいるが、基本的には自家用車の利用者が想定されている。「ニッセイ基礎研究所」の調査(*1)によると、新型コロナを受け、自家用車や自転車、徒歩による移動手段が増加し、特に自家用車が増えているという。仮にコロナが収束したとしても、車利用が激減することは考えられず、車依存の社会はこのままある程度は続くのだろう。

  都市計画や自動車依存などがもたらす集会の機会の喪失を把握することは難しく、市民権の問題として捉えられることはほとんどない。しかし公共空間が除かれてしまえば、究極的には公なるものも同じ途をたどる。個人は市民ではなくなり、同じ市民たちと共通の経験や行動をすることができなくなる。市民という地位は他人と何かを共有する感覚に基いているのであり、これは民主主義が他者への信頼の上に築かれることと同じ理路による。(同書、p367)

  個人が市民でなくなったときに残るのはどんな社会なのだろうか。すでにそのような社会になっているのかもしれない。

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*1 https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=70520?site=nli(2023年1月19日閲覧)

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