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「take a stand」1968年10月17日、メキシコ五輪

1968年10月17日、メキシコ五輪、男子200m表彰式。

世界新記録で金メダルを獲得したアメリカのトミー・スミス、同じく銅メダルのジョン・カーロス。アメリカの栄誉を讃える「星条旗よ永遠なれ」に合わせ、星条旗が掲げられていく中で、この二人のアフリカ系アメリカ人のアスリートは、目線を下に、うつむいたままスミスは右手に、カーロスは左手に黒い手袋を嵌め、握った拳を高々と天に突き上げた。

この半年前、アメリカでは公民権運動の指導者、キング牧師が暗殺された。二人の行動は、黒人差別への、そして世界の各地で抑圧されている人々への、抵抗と尊厳の奪還を訴えるパフォーマンスだった。

二人はシューズを脱いで表彰台に登った。それは靴も買えない南部の黒人の貧困を表していた。スミスが首に巻いた黒いスカーフは奴隷船から海に投げ出され鮫の餌になった人々への、カーロスのビーズのネックレスは、白人至上主義団体によって縛り首にされた人々への、それぞれ哀悼の意を表していた。

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表彰式の直前。カーロスは、もともと身につけるはずだった黒のグローブを忘れたことに気付く。それならば、スミスのグローブをそれぞれ右手と左手に、二人で分け合うことを提案したのは、銀メダリストとして表彰式に臨むオーストラリアのピーター・ノーマンだった。

オーストラリアと言えば白豪主義を掲げる、当時、世界有数の人種差別に寛容な国家だった。非白人に対する様々な制限。先住民のアボリジニにおいては親権が否定され、アボリジニの子ども達は親元から施設へ、強制的に連れ去られた。

そんな国から来た白人スプリンターのノーマンに、スミスとカーロスは問いかけた。「君は人権を信じるか?」「信じている。」とノーマンは答えた。「君は神を信じるか?」「強く信じている。」そして、これから表彰台の上で行われることを聞かされたノーマンは言った。「君たちが信じているものを、僕も信じている。君たちと共に立つよ。(I’ll stand with you)」

そして、スミスとカーロスが胸につけていたバッジを、自分にも身に付けさせてほしいと頼んだ。それは、「人権を求めるオリンピック・プロジェクト(OPHR)」のバッジだった。

カーロスは後年、表彰式直前のやり取りを、こう回想している。「ノーマンの目には恐怖があるものだとばかり思ったが、ぼくたちが実際に見たのは愛だった 」

ノーマンは二人と共に、OPHRのバッジを胸に表彰式に臨んだ。

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メキシコ五輪前年の1967年、世界中の人種隔離政策と、スポーツ界での人種差別への抵抗のために、アメリカの黒人のアスリートによって組織された「人権を求めるオリンピック・プロジェクト  The Olympic Project for Human Rights 」。

たとえオリンピックでメダリストになり、母国の英雄と讃えられたとて、黒人である限り、白人と同じレストランで食事をすることも、バスで隣の席に座ることも許されない。オリンピックが謳う平和や平等、友愛といったものが、いかに欺瞞に満ちたものか、彼らは誰よりも理解していた。

もっともOPHRのメンバーは黒人に限られない。表彰式の際、ノーマンにバッジを渡したのは、たまたま居合わせたアメリカ代表の白人のボート競技の選手だった。(スミスとカーロスは、自分達の分のバッジしか持ち合わせていなかった。)

当初、OPHRのメンバーはメキシコ五輪へのボイコットを画策していたが、最終的に参加の条件として、次の4つを提示する。

アパルトヘイト政策を続ける南アフリカとローデシアのオリンピックからの排除、ベトナム戦争への徴兵拒否で剥奪されたモハメド・アリの世界タイトルとボクジング・ライセンスの返還、アメリカ・オリンピック委員会の黒人役員の増員。

そして、国際オリンピック委員会(IOC)会長、アベリー・ブランデージの更迭。

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アベリー・ブランテージは、1897年生まれのアメリカ人であり、1952年から1972年の20年に渡ってIOC会長を務めた。(つまりはメキシコ五輪においては、ブランテージの更迭は叶わなかったのだ。)

「ヒトラーのオリンピック」とも呼ばれた1936年のベルリン五輪。ナチ政権下での開催に、アメリカではボイコットへの機運が高まる中、参加を強く訴えたのが当時、アメリカ・オリンピック委員会の会長の職についていたブランテージだった。

「スポーツに政治を持ち込むべきではない」というのが建前だったが、実際、ブランテージはナチス体制を賛美し、ボイコットの働きかけはユダヤ共産主義の陰謀であると主張していた。

ベルリン五輪では、400mリレー当日の朝に急遽、アメリカ代表チームからユダヤ人選手二人が外されるという事件もあった。この決定にも、ブランデージの圧力があったと考えられている。

メキシコ五輪の4年後、1972年のミュンヘン五輪では、選手村をパレスチナ過激派が襲撃し、イスラエル代表のユダヤ人選手11人が殺害されるという大惨事が起こった。それでもブランデージは順延の後、殺害された選手達に一切言及することなく、大会の継続を命じた。後にブランデージは、ユダヤ人選手の殺害とローデシア人選手のオリンピックからの排除は、同じレベルの犯罪的行為であるとも語っている。(南アフリカとローデシアは、1968年のメキシコ五輪から出場資格を剥奪されていた。OPHRの主張がIOCを動かしたのだ。)

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OPHRのメンバー、スミスとカーロスが挑んだメキシコ五輪、男子200m決勝は、誰もがこの二人のアフリカ系アメリカ人同士の一騎打ちだと考え、疑わなかった。

準決勝、無名のスプリンターだったオーストラリアのピーター・ノーマンは、20秒22というオリンピック新記録で決勝進出を決めたが、その記録とて直後のレースでスミスとカーロスが叩き出した、20秒12と20秒14には及ばなかった。

そして決勝。大方の予想通り、100mあたりから次第に後続を引き離しにかかるスミスとカーロス。ゴール目前、カーロスは、左のレーンを走るスミスのリードを認める。そして次の瞬間、右手を見たカーロスの目に移ったのは、小柄な白人スプリンター、ノーマンの姿だった。レース後半、驚異的な加速をみせたノーマンは、スミスが叩き出した19秒78という世界新記録には及ばなかったものの、僅かの差でカーロスを抜き去り、20秒06のオーストラリア記録でゴールラインを割った。

オリンピック史に残る、素晴らしいレースだった。

しかし、この後の表彰式起こった出来事は、レースの余韻を一瞬にして吹き飛ばした。

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「星条旗よ永遠なれ」の演奏は、観客からのブーイングで掻き消された。表彰台でのパフォーマンスに激怒したブランデージは即刻、スミスとカーロスのオリンピック選手村からの追放を命令し、その後の競技への出場資格を剥奪した。皮肉なことに、ロサンゼルスタイムスは彼らのパフォーマンスを「"ナチス風(Nazi-like)敬礼"」と非難した。親ナチスのブランデージは、この表現をどう感じただろうか。

母国に帰ったスミスとカーロスを待っていたのは、白人至上主義団体をはじめとする国中からの中傷や脅迫、殺害予告。カーロスの妻は自ら命をたった。

ノーマンもまたオーストラリアの保守陣営やメディア、さらに同僚の選手からの激しい非難にさらされた。そして、その後は徹底的に存在を無視された。4年後のミュンヘン五輪。オーストラリア代表にノーマンの姿はなかった。予選会において200メートル走で13回、100メートルで5回も予選通過記録を出したにも関わらず。

2000年、女子マラソンでの高橋尚子の金メダル獲得に日本中が湧いたシドニー五輪においても、ノーマンは自国開催の大会の聖火ランナー候補から外されたばかりか、式典に招待すらされなかった。

オリンピック憲章には、オリンピズムの根本原理として、「人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない。」と記されている。しかし21世紀最初のオリンピックは、黒人差別に抗議の声をあげた白人アスリートを許しはしなかった。

メキシコ五輪の銀メダリスト、ピーター・ノーマンは2006年にひっそりと亡くなった。オーストラリアの陸上界からの、実質上の追放後も競技は続けたものの生活は困窮。家族もやがてノーマンの元を去って行った。アキレス腱断絶という怪我も重なり、晩年は鬱とアルコール依存に苦しめられた。

実はノーマンは幾度も、自身の行動を悔い改め、スミスとカーロスを非難するように持ちかけられていた。その誘いに乗っていれば、ノーマンはオーストラリア・オリンピック委員会から安定した仕事の斡旋を得られただろうし、2000年のシドニー五輪の組織委員会に入っていたかもしれない。

しかし、ノーマンは生涯、そのような誘いに乗ることはなかった。

ノーマンの葬儀で先頭で棺を担いだのは、1968年のメキシコ五輪以来の彼の友人、トミー・スミスとジョン・カーロスだった。

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ノーマンが亡くなる前年の2005年、カリフォルニア州立大学サンノゼ校は、卒業生であるスミスとカーロスの偉業を讃え、1968年にメキシコで起こった出来事、彰台上で拳を高く掲げる二人の銅像を建立した。除幕式には、ノーマンも招待され出席した。

しかし、その表彰台の上、銀メダリストの場所にはノーマンの像はない。それはノーマン自身が望んだことだった。

生前、ノーマンはその理由をこう語っていた。「誰もがこの場所にのぼって、そこで自分たちが信じるもののために立つことができるんだ」。

無人の銀メタリストの台座には、ただ「take a stand」という言葉が刻まれている。

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現在ではトミー・スミス、ジョン・カーロス、そしてピーター・ノーマンの人生は、人種差別と戦ったオリンピアン達の物語として広く知られている。

ただ忘れてはならないのは、近代オリンピックは、人種差別的な人々によって先導されてきた歴史だ。(スミスの黒い手袋は、本来はブランデージとの握手を拒むために用意されていた。)

一瞬の熱狂は人々に、社会の中のあらゆる差別や不寛容の存在を忘れさせる。まるで、そうしたものが、もともとこの世界に存在しないかのように。もちろん、それはまやかしに過ぎない。

彼らはオリンピアンでありながら、平和と平等の祭典というベールが覆い隠す現実を衆目に晒すとともに、近代オリンピックの欺瞞を世界に訴えかけた。

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#オリンピック #東京オリンピック #五輪 #人種差別 #人権

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