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本屋プラグのためにならない読書⑥

 この原稿を書いている10月5日現在、和歌山市北部の自宅は六十谷水管橋の崩落につき断水中だ。幸いにも紀の川を挟んだ反対側、市南部の万町にある店は水道が使用できるため、最低限の水は確保できるものの、炊事や洗濯、風呂、トイレ――ペットボトルに入った水がただそこにあるだけで事足りるわけではない。出るべきところから水が出ない不自由さは、体験して初めて思い知らされた。

 もっとも風呂に関しては、実はさほどに不自由を感じていない。と言うのも常日ごろから入浴は自宅ではなく、町の銭湯のお世話になっている。店から歩いて通える距離に、2軒のいわゆる町の銭湯と、1軒のスーパー銭湯がある。このうち、専ら通っているのは町の銭湯、大新地区にある幸福湯だ。さすがにこの連日は、入浴を待つ客で行列ができるほどの混みようだが、特に小さな子どもなどは、この折に初めて町の銭湯を訪れたということもあるように思う。広々とした浴槽のお湯に、思いっきり身体を伸ばしてつかる心地よさを、久々に思い出した人も多いのではないか。


 「春夏秋冬、風呂は人間が生きている間の最も安価にして、しかも重大な幸福の一つだろうと考えている」

 こう綴(つづ)るのは、大正から昭和初期にかけて活躍した洋画家で、軽妙な文章の書き手でもあった小出楢重(こいでならしげ)(1887~1931年)。1930(昭和5)年出版の随筆集『めでたき風景』では「入湯戯画」と題したエッセーの中で、入浴の愉(たの)しみと、昭和初期の大阪は島之内の、町の銭湯の情景をおおらかに描写している。

 「何杯も何杯も、頭から水をかぶって、遠慮なく飛沫(ひまつ)を周囲へ飛ばせ(ママ)、謡曲らしきものをうなりながら自由体操を行うところの脂ぎった男などは、朝風呂に多いのである」「太陽の光が湯ぶねに落ちている昼ごろ、誰一人客のない、がらんとした風呂で一人、ちゃぶちゃぶと湯を楽しんでいるのは長閑(のどか)なことである」


 90年以上前のエッセーとはいえ、日々銭湯に通う者にとっては、その情景がありありと目に浮かぶようだ。

 「私はまた夜の仕舞風呂の混雑を愛する。朝風呂の新湯の感触がトゲトゲしいのに反して、仕舞風呂の湯の軟かさは格別である。湯は垢(あか)と幾分かの小僧たちの小便と、塵埃(じんあい)と黴菌(ばいきん)とのポタージュである。穢(きた)ないといえば穢ないが、その触感は、朝湯のコンソメよりもすてがたい味を持っている」


 さすがに、このポタージュの味わいについては、現代の設備の整った銭湯では望むべくもないし、あえて望むものでもないが、小出楢重の筆にかかれば不思議とそんなに悪いものには思えない。

 「(銭湯の)混雑は私にとって不愉快だが、私の頭の上に他人の尻の大写しが重ねられたりする事も風情ある出来事である」

 この風情ある出来事は、今週は和歌山市中の銭湯で、多くの人が体験することになるだろう。(本屋プラグ店主・嶋田詔太)

https://mainichi.jp/articles/20211008/ddl/k30/040/335000c

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