もし衛生兵だったら、わたしはわたしを助けただろうか

MOTTAINAI

 忘れもしない、いきなり電子レンジでゆで卵を温めようとして爆発させたあの日の衝撃から、やっさんの行動が自分の理解の範囲を越えていることはなんとなくわかった。認知症というのはそういうものなのだ。

朝になると「ごはんは?」と5時すぎには起こされ、夜は夜で寝たかな?と思って様子を見にいくと、電気を煌々と灯して部屋の中でぶつぶつとなにかを喋りながら探し物をしていたりした。
「なに探してるの?」と聞いて、振り向いたやっさんに「お前だよ!!!」と叫ばれた日には漏らしかねないので(わたしが。)具体的になにを探していたのかは聞かなかった。

何度も夜に目を覚まして玄関をはじめ家中の窓の鍵がかかっているかを確認しに行ったり、何かを食べるという行為もほぼ24時間体制。
やっさんは深夜にもおやつの時間があるのだ。わたしなんかよりよっぽど体力がある。
看護師さんたちにも「とにかく寝て!なんでもいいから寝る時間を作って!介護は寝ないとはじまらないから!」となかば脅されるように繰り返しいわれていた。

毎日、特に頭を悩ませたのは、家の中のどこかの引き出しの中からやっさんの食べ残しが出てくることだ。

食べ残し

↑ 食べかけ採集2017(ある日の引き出しから)


わたしがやっさんのためのおやつを隠す“おやつチャレンジ”をしているなら、やっさんも“食べ残しどーこだ?ゲーム”を率先してやっているみたいだった。いや、ね、本当に全然楽しくないんだから、そのゲーム。
どれも封があいていて、いつ食べたものなのかがわからない。もちろん即廃棄。見つけるたびに、虫がわいていないかカビが生えてないか確認をする。
わしゃ、爆弾処理班か。

やっさんは毎朝1パックの納豆を食べるのがお決まりだったが、必ず全部食べきれずに残していた。「どうせ冷蔵庫に入れても食べないから捨てていいよ」というと「食べるに決まってるだろ!」といって聞かない。結局、やっさんに思い出してもらえなかった納豆は、冷蔵庫内からいつも“干物”状態になって発見された。腸まで届いていたらもっと活躍できたのに、あわれな納豆菌たちよ……。

同じように、食べないのに開けた缶詰や、ひと口しか食べずに戻されたフルーツ入りのゼリー、封が開いたカップ味噌汁(あとは湯をかけるだけですよ!)、茶色くなった半かけのりんごなど、庫内は行き場をなくした食品ミイラがずらりと並ぶようになった。食への欲求は激しいものの、やっさんは封があいたものは「古い」といって二度と食べない。

世界が認めるMOTTAINAIはやっさんのための言葉じゃないかと思ったし、もったいないオバケにやっさんが連れていかれそうになっても、我がかぞくは全員納得の面持ちで見送るだろう。



醤油にふりまわされるな

 一緒に暮らすまでまったく知らなかったのだが、食卓の上にはいつも醤油さしが置かれ、好きなだけかけ放題状態になっていた。やっさんは主菜、副菜おかまいなしに、満遍なく醤油をかける。
血圧の上昇を抑える薬も飲んでいるのに!母なにやっとんじゃい!と、そんなものはすぐに撤去である。

が、毎食毎食「醤油がない!醤油がない!」とやっさんが騒ぐ。
「味つけはちゃんとしてあるでしょ!」というと「味がしないんだ!」と怒りだす。
「醤油ないのか!」「醤油ないなら買ってこいよ」と怒って冷蔵庫からめんつゆを取り出す。取り上げるとぽん酢を取り出す。
この一連の流れ、100万回ぐらいやりました。食事のたびに。
(のちに、母、醤油さしに水を入れて薄めていたことが判明…つぇぇぇ)

「味がしないなら食べなきゃいいでしょ!いいですよ! 食べなくて!」とブチ切れたこともしばしば。
わしゃ、反抗期まっしぐら思春期男子の母親か。
あるときは、わたしが飲んでいたアイスコーヒーのボトルを手にとって料理にかけようとしたので、さすがに全力で止めた。

日に日に声を荒げる回数が増え、冷静に対応できなくなっていく己の狭量さに嫌気が差してくる。
認知症だから言われたことなんてどうせ忘れるだろうと、都合のよい解釈をしてやっさんに暴言を吐くことを正当化しようとする自分もどんどん嫌いになっていった。


やっさんの矜恃、わたしの逃避

 くらしを支える衣食住は自分が用意したものという意識がやっさんはすごく強かった。何か気に入らないことがあるとすぐに「捨てろ」「いらねぇ」「おれが買ったんだからおれが捨ててもいいだろう」という発想にいたる。

当然ながら、「バカなことをいうでない。ごはんを用意しているのはわたしで、日用品もやっさんの身の回りのものは全部!わたしが!今は買っているんですよ!」と何度も言いかけのみこんだ。
「こんなにやっているのに」「こんなに尽くしているのに」「こんなに譲歩しているのに」勝手なことばかり勝手なことばかり勝手なことばかり…!!


今ならば、勝手に期待をして勝手に頭を沸騰させていたのは自分の方で、やっさんは口が悪いオラオラした輩にからまれた被害者ということになるかもしれない。
認知症が治癒しない病気であることは知識として知っていても、「少しぐらいは介抱に向かうのではないか、こんなにしてあげているんだから」というあわよくば精神”が、“回復をあきらめる”という気持ちを封じ込ませた。

また確実に、焦りが判断を鈍らせた。

いつ仕事に戻れるのだろう、いつこの生活は終わるのだろう、いや、もうふたりきりで生活していくしかないんじゃないか、暖かい部屋のなかで、毎日やっさんのためにごはんを作り、おやつを作り、穏やかに暮らそうか。
それでしあわせじゃないか、仕事を辞めて実家へ戻ってこようか、母がやっさんとふたりきりの生活は嫌だというのなら、わたしが戻ってくるしかないんじゃないだろうかーーーーー。

夜眠らないぶん、気づくと昼間にうとうとするようになったやっさんを見ながら、全力で現実から目を背けようとした。

パズル_Fotor

↑ 穏やかな昼下がり。昼寝させないようにやっさんにパズルをさせている図。(姉に買ってもらったダウンがお気に入りで、なぜか部屋の中でも着ている…)ちなみにパズルはやっさんにはむずかしすぎて、ほとんど姉とわたしが作った。


「娘である自分が面倒を見るべき」という思い込みも深刻だったように思う。
あれもこれもやるべき、やっさんのためにやるべき、母のためにやるべき、姉のためにやるべき、家族なのだからやるべき。
よい娘でありたいと思う意識が、冷静さを奪いとり、思考する行為そのものをわたしから引き剥がそうとした。“わたし”という個の感情をないがしろにして。

当時「感情を吐き出す」という行為を“悪事”であることと思っているフシもあった。誰かに話す? この状況を誰に? 
孤独という名のボディスーツがぴったりと全身の肌を覆っているようだった。もう少しで呼吸ができなくなる……。息が苦しい。



そんなとき、わたしは無意識にひとに頼った。
本当に苦しかったとき「たすけてほしい」といえた相手は、SNSで知り合った名も知らない人だった。


もれなくやっさんのあんぱん代となるでしょう。あとだいすきなオロナミンCも買ってあげたいと思います。