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ルンパッパさん(@gatimutinoukin)の『フェミニズム関係のいろいろについて』に関する批判的感想

 どうもです。ボルボラです。最近仕事が忙しすぎますね。じつは私は医薬品メーカー勤務でして、消毒薬も作っているため、昨今のコロナウイルス需要でヤバイことになっているのです。はよ消滅しろコロナウイルス。

 まあ、仕事上の愚痴はさておき。

 相互フォロワーで優秀な高校生であるルンパッパさんが、先日下のnote記事を公開しました。

『フェミニズム関係の色々について』(ルンパッパ)

 この記事について友人のyuyaさんが感想を書いていたので、私も書いてみよう、というわけです。

 ちなみに本記事では、僭越ながら、まず何よりもルンパッパさんの議論スキル向上の助けになればと思い、できるだけ多くの問題点をあげて詳細に書くようにしています。ぶっちゃけ「細けえな!」「くどいよ!」「嫌味ったらしくね?」と思うでしょうが、あくまでも参考意見として捉えていただければ幸いです。悪意ないです。本当です。
 ていうか、私もここで書くようなことを全部いつも守っているわけではないし……。(本記事の内容と、私の過去記事・過去ツイートを照合されると私が死ぬ仕組みになっている)

 前置きはこのくらいにしましょう。ではいきます!

明晰な定義なき「感情的・理性的」という言葉

 ルンパッパさんは、記事中で現代フェミニズムおよびアンチフェミニズムの惨状を嘆くなかで、議論において感情的になることの害悪を説き、もっと理性的になるよう呼びかけている。具体的には、より第三者的で公平であろうという判断から、学生に議論させることを提言している。詳細は記事本体に譲る。
 ここでいう「感情的」とは、記事を読む限り、『根本的な解決に向かわない主張をしたり、現実的でない主張をする』ことであり、攻撃的になることであり、論理飛躍を起こすことであり、また不公平な見方をすることなどである。そして「理性的」はこの逆で、客観的で公平な見方をすることなどであるようだ。

 この感情と理性の対比は、ルンパッパさんの記事全体を支える土台にもなっている。そうであるなら当然、私はこの土台の「ゆるさ」を最初の問題にしない訳にはいかない。

 「感情的になるのはよくない」「理性的になろう」といっても、具体的にどのような基準で感情的・理性的を判定するのか明示されなければ、結局それは言葉のもつイメージに頼った内容空疎なスローガンに過ぎない。「平和を守ろう」「食べ過ぎはよくない」「思いやりを持とう」など、それぞれ主張として別に間違っているわけではないが、意義も乏しい。
 「食べ過ぎ」を例にするなら、ふつう我々が関心をもつ問題は、「何をどこまで食べたら食べ過ぎなのか」「なぜ食べ過ぎてしまうのか」「食べ過ぎを防ぐにはどうしたらいいのか」といったことであり、「食べ過ぎないようにしろよ!」という呼びかけは、「まあ、そうなんですけど…」という苦笑いを誘うのがせいぜいである。

 ルンパッパさんにとっては皮肉なことだが、明晰な定義をせずに「感情的」と断じてフェミニストらの言説を叩くのは、フェミニストがやはり明晰な定義をせずに「性的搾取」と断じて萌え絵ポスターなどを叩くのと似てしまっている。少なくとも私は当該記事から論理構造上の差は見いだせなかった。むろんルンパッパさんの内心には何らかの定義があるのだろう。が、書かれていないので分からない。

 なお、ここでいう「明晰な定義」とは、さしあたり「明文化された手続きに従えば、誰もが同じ判定結果にたどり着ける」ような定義を指す。たとえばインターネットから記事をランダムに20本抽出してきて、私とルンパッパさんでそれらを「感情的な記事」と「理性的な記事」に分類するとき、判定にブレが出ないような定義である。ダメなパターンを挙げると、たとえば「理性的とは、事実をよく検討して論理的に考えることである」のような曖昧語を曖昧語で言い換えているだけの定義である。いや、厳密にいうと、通してもいいのだが、その場合はあくまで「感情的・理性的」は「性的搾取」と同レベルに扱う。つまり、判定者の気分によって結果をいじくれる程度の、恣意性の高い概念である。恣意性は常に排除されなければならない訳ではないが(たとえば「おもしろい」や「おいしい」は恣意的であって当然だし、それで構わない)、今回は恣意性を出来る限り抑えることが必要だろう。

 なぜ必要か。もしルンパッパさんの前にフェミニストが現れて、こう反論してきたとしたらどうだろうか。「ルンパッパ氏は、感情的・理性的という語の定義もせず、またフェミニストの具体的言説を引用することもなく、十把一絡げにわれわれの主張を感情的と吐き捨てています。これは果たして理性的な批判といえるでしょうか? 定義が示されていない以上、私たちは氏の論証プロセスに間違いがないかどうか、また定義の内容が妥当なものかどうか、検証することさえ出来ないんですよ」と。

 これを再反論で潰すのは、かなり厳しいように思う。この場合の定義要求はまったく正当・妥当と言う他ない。フェミニストを自認している人からすれば、情緒不安定で根本的問題解決を志向できず、現実的でなく、攻撃性が高くて理性的でない連中だと痛罵されているのである。そこまで言うからには定義と論証プロセスの開示くらい要求されるに決まっている。感情的・理性的の語は記事中でほぼ中心的な役割を担っている以上、つまらない揚げ足取りだと無視することも難しい。

 また、なぜルンパッパさんによる判定を「正しい」ものとして受け容れるべきなのか、その根拠も問われるだろう。

根拠と具体例に欠けるという問題

 ルンパッパさんは、冒頭から次のように書いている。

最初に言っておくと、僕は現代日本のツイッター上で叫ばれているような内容のフェミニズムには基本的に反対である。そして、フェミニストを積極的に批判するような人々にもあまり賛成できない。なぜなら、どちらも情緒不安定な側面があるからだ。フェミニストは、世の中の様々な出来事に対して根本的な解決に向かわない主張をしたり、現実的でない主張をする。攻撃性が高く、とても理性をもって主張しているとは思えない。
しかし、それを批判する人々も一概に理性を持って主張しているとは言えないのだ。フェミニスト全体を敵視するあまりに、フェミニストのような論理飛躍を起こしている人や、過激な意見を述べる人が少なくない。相手に感化されてしまっている。

 しかし、少なくともこれだけ読んでも、フェミニストやアンチフェミニストについて何とも判断がつかない。一応、『現代日本のツイッター上で叫ばれているような内容のフェミニズム』に反対している理由を述べる形になっているが、実際に挙げられている理由はといえば、「情緒不安定」「現実的でない主張をする」「攻撃性が高い」という、いずれもフェミニストの主張内容そのものというよりは、そうした主張を読んだ結果、ルンパッパさんが感じた印象である。フェミニストの具体的な主張内容が取り上げられていない以上、読者にはこれらの印象が正しいかどうか検証できない。ただ信じることだけが求められる。

 私は個人的な知見(Twitterにおけるフェミニスト観察経験)により部分的に信じるが、真実性を担保する根拠・具体例が何一つ提示されていない点は指摘しておきたい。これはすなわち、個々の主張――たとえば「フェミニストは攻撃性が高い」――が何ら論証されていないことを意味する。

 もちろん、記事に含まれるすべての主張に根拠と論証が必要だという訳ではない。語句の定義と同様、「まあ常識的に捉えて流してよ」と済ませなければ、無限に長たらしくなるだけだろう。そういう不可能な手間は要求しない。しかし、あきらかに論旨の中枢を担っている概念の定義や、それに近い主張の根拠が無いのは困る。

 次の文章には、また別の問題がある。仮定に仮定を重ねすぎていて、説得力に乏しいという問題である。

全ての人間が身体的に男性もしくは女性に属するため、なかなか客観的な立場での議論というのは難しいのかもしれないが、そういったものが目指されるべきである。私は、学生に議論させることを提案する。
性差は資本主義社会によって拡大するという見方もある。稼ぐ能力に差が生まれるからだ。そういう点で考えれば、学生はそもそもあまり稼がないのであるから、公平な視点での論者として適しているのではないだろうか。

 「学生が公平な視点での論者として適している」という結論を妥当なものとして受け容れるためには、次の仮定にすべて同意しなくてはならない。(ズレないようにしているつもりだが、多少意訳しているので、問題があれば指摘してほしい)

①性差は資本主義社会=稼ぐ能力の差によって拡大している。
②あまり稼がなければ(稼ぐ能力の差が小さいと)、公平な視点に近づく。
③公平な=客観的な=第三者的な視点に近づけば、より良い議論ができる。

 私にはいずれも疑わしく思えてしまう。そもそも出発点である『性差は資本主義社会によって拡大する』にしても「~という見方もある」で結ばれている。では、そうでない見方――性差は資本主義社会のせいではないとする説、あるいは、資本主義社会のおかげで性差は縮小しているとする説――もそれなりに有力な見解として世の中にあるのだろう。

 「性差拡大=資本主義原因説」が崩れると、最終的な主張も崩れてしまうが、それにしては扱いが雑である。不都合なデータひとつ出されたら壊れてしまう。おそらくどの読者も、この記述だけ読んで「なるほど。性差拡大は資本主義社会が原因だな!」とは思えない。そもそも「性差」をどの指標で評価しているのかも不明である。平均年収か、幸福度か、指導者層における女性比率か、学歴か、色々ひっくるめたすべてか。また資本主義社会ではなく、共産主義社会だったら性差拡大も少なくとも鈍化はするのか。時系列比較か国際比較のデータが欲しい。

 次の『あまり稼がなければ(稼ぐ能力の差が小さいと)、公平な視点に近づく』もすぐに頷ける仮定ではない。稼ぐ能力と公平な視点は、関係するとしても直結まではしていないのではないかと素朴に思う。またあえて一旦正しいと受け容れても、今度は「学生であること」を要求する意味がなくなる。同程度の年収の男女を集めて議論させればいいだけである。むしろ、この方が家庭に貧富の差がある学生同士よりも、資本の充実度は揃えられるのではないか。

 最後の『公平な=客観的な=第三者的な視点に近づけば、より良い議論ができる』も疑問が残る。利害関係がない人は、その問題に取り組む動機づけも乏しい人である。公平性を守るにあたって、立場は当然無関係とは言わないにしても、「当事者性を薄くする」や「平らにする」ことは議論の質をはっきり保証するほど強い担保にはならないだろう。また「議論術」なことを言えば、主張内容ではなく主張者の属性によって不適格だとみなすのは、属人論法という詭弁であるとはいえ詭弁の問題にしなくても(個人的にもポジショントークの警戒はごもっともだと思うので)、たとえば日本人はたいていコンゴ共和国とは関係ないが、だからといって、当該国家の政策決定に対し、コンゴ共和国人よりもずっと公平で正しい判断が下せそうなのかを考えても良い。また同様に、日本の政策はコンゴ共和国人に決定してもらった方がよさそうなのかも。それより専門分野に関する知識の量と質のほうが問題ではないか。

 このような疑わしい仮定が3つ連続して成立するなら、ルンパッパさんの言うことは正しい。が、それは「現実的でない主張」の一種のように思う。また仮定を支える根拠がこの程度でいいなら、「同価値の」反対論を述べるのも簡単である。「資本主義社会が性差を縮小させているという見方もある」と言い、根拠としてはとりあえず「昔のような力仕事の比率が低くなり、女性が活躍できる場が広がった」などと言っておけばいい。


おわりに

 できるだけ頑張って問題点を書いてみました。こんなに書くと、おそらく「ボルボラの指摘のほうが間違っている部分」などありそうなのですが、それはそれとして受け容れる気持ちを整えておきます。ダメな部分もふくめて私ですから……。

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