神とは何なのか -『原理講論』シリーズ-
はじめに
神が人を創ったのか
人が神を創ったのか
そもそも神は存在しないのか
記事を読んで下さり、ありがとうございます!
「神」についての議論は長い間されていますが、有神論と無神論のどちらが正確な考えなのかは、今だにハッキリしていません。
存在することを証明できてないし、存在しないことも証明できてないわけです。
そこで今回『原理講論』に記されている、「神の定義」について紹介していきます。
さて前提として、家庭連合・旧統一教会は有神論的立場を採っていますので、無神論支持者には抵抗しかないと思いますが、寛大な心で読んでいただければと思います😅
神の定義
以上が、『原理講論』における神の定義です。
見慣れない言葉があり、抽象的な定義付けなので、細かく見ていきます。
被造万物の普遍性、共通性から神を知る
神は創造主であられるという立場から、神は原因的存在であり、被造物(人間、万物、世界)は結果的存在であると考えています。
ただ神は無形的存在です。
ところで、無形というのは存在しないということではなく、目に見えない形で存在しているということです。
空気、電波は目に見えませんが、呼吸やスマホを通して、また検知器を通して存在を確認できますよね。
つまり、可視化・可感知化することで存在を証明しているわけです。
そこで、結果的存在かつ有形的存在である人間や万物を観察し「普遍性」「共通性」のある事実があるか検証していきます。
すると全ての被造物は、
人間でいう心のような存在と体のような存在
で構成されていて
人間でいう男性と女性といったような二つの性質が存在
している
ということがわかります。
ここから、原因的存在かつ創造主たる神も同じ構成をしている、と見るわけです。
そこで『原理講論』では、人間の心に当たる神の部分を本性相、体に当たる神の部分を本形状、人間の男性に当たる神の部分を本陽性(男性)、女性に当たる神の部分を本陰性(女性)と称しています。
次に、二性性相についてです。
これは、性相(心)と形状(体)には相似性があり、形状は第二の性相であると言える、ということを意味した用語です。
要するに、心と体は別個ではなく、密接な関係を持っているということですね。これを、『原理講論』では、相対的関係、と表現していることが多いです。
本性相と本形状の二性性相の中和的主体
見慣れない言葉の説明を終え、定義に触れていきます。
本性相と本形状の二性性相の中和的主体である、というのは、人間で例えると、{心(本性相)と体(本形状)}{二性性相}が一つ(中和的)となった人格者と言えます。
ここから、神には人格性があると見ています。
本性相的男性と本形状的女性の二性性相の中和的主体
これを人間で例えると、{人格が備わった男性(本性相的男性)と人格が備わった女性(本形状的女性)}{二性性相}が一つ(中和的)となった夫婦と言えます。
以上から、神には夫婦性があると見ています。
被造世界に対しては性相的な男性格主体
これは先述したように、神は創造主であるということを意味します。
私たち人間や万物・世界は単なる偶然的産物ではなく、神の愛や意図・構想があり、それに基づいて創造された必然的産物と見ているわけです。
結論
以上から、神には人格性・夫婦性があり創造主である、と考えています。
そこから私たちは「神は親である」との結論に至っています。
おわりに
有神論を支持するか
それとも
無神論を支持するか
日本国憲法で規定されている信教の自由の保障の下、また、個人の自由と責任の下、判断するものなので押し付ける気はありません。
私は『原理講論』で説いている神観に賛同していることを表明したいに過ぎません。
強いて、私からお伝えしたいことがあるならば、
反対の意見に少しでも向き合い考察することは、視野や知見をより深める、きっかけになるということです。
まあ、それが簡単ではないから、人は争いを止めることが今だにできないわけですが…😭
私は神様を知り信じる、という選択を採ったからこそ、偏向的な視野を持たないように努めることができるようになったと思っています。
なぜなら、神様は原理以上に愛の方だからです。
ただ残念なことに、人を許せなかったり、善悪観だけで人を見てしまうことは、まだまだ、あります…😢
そういう時は、まだまだ自分の人間性に伸び代があるなーと思わされます。
少々、個人的な話をしてしまいましたが…最後まで記事を読んで下さり、ありがとうございました😊
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