ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』【基礎教養部】[20230730]

読んで思ったことを書きます。

、、、まず読みにくかったです!!!!!!!!!!!!!

この感想が、「ちゃんと読んだ」ことの証明になると、読んだ人ならわかってくれると思います。

(以下、「ですます」を放棄。)

暗黒啓蒙って何?

啓蒙とは「光で照らすこと」。人に進歩を促す思想である。進歩。リベラル。革新。平等。民主。これはもう今の社会では「自明の理」のようなもので、これに異を唱えようものなら、社会からつまみ出される。

(少なくともこの本における)暗黒啓蒙とは、「、、、その自明の理、宗教じゃね?」と言って、そこからの出口を検討する思想である。
民主主義とかポリコレとか平等とかを切り捨て、そもそも国家が邪魔だ!ということで、個人のユートピアを作ろうとするリバタリアン的な理想が、暗黒啓蒙の核である。

Hirotoは暗黒啓蒙を信じる?

さすがにこの本を読んだだけでは改宗できない。というか、これを読んで改宗するのは、あとがきにもあるように「釣り」に引っ掛かるようなもので、安易すぎる。

一種の思考実験というか、極端なことをわざと言っているような文章なので、部分部分から気になるとっかかりを見つけるというのが良い付き合い方なのだろうと感じる。

ただ、だからと言って、民主主義万歳!と手放しで言える状況ではないことはそれこそ自明である。腐敗の原因を消去法で民主主義に求めるしかないくらい、終わっている証拠がわんさか出てくるのだから。

民主主義が万能だとは思わないけれど、暗黒啓蒙こそがその代案だとはそれこそ全く思わなかった。

じゃあ何にとっかかりを感じた?

「人種問題」について、本書ではかなり詳しく述べられている。あまり誇らしげにいうことではないが、自分の人生においてあまりゆかりのないテーマなので、正真正銘他人事として読んでしまった。外国に行けば自分ごとになるだろうが。

「性別」とかに置き換えたら自分ごとかもなと感じた。

普通の啓蒙的な発想だと、こちらはポリコレ礼賛なので、まず女性の権利が第一で、その次にセクシャルマイノリティの権利、ということになるだろう。男性の権利は?と思うかもしれないが、これは本書で述べられている白人の状況と似ていると考えられる。

黒人は白人に迫害されていた、という経緯から、黒人が白人に対して抱く恐怖は正当化され、白人が黒人に対して抱く恐怖は「差別」とされる(と本書では書かれている)。このアナロジーとして考えるなら、男性嫌悪は正当化され、女性嫌悪は「差別」とされる。だから男性の権利をことさらに言語化するのは二の次なのである。

この「逆差別」とでも言えるような状況、男性として生きていたらまぁ感じることは少なくない。奢り奢られ論争であるとか、セクハラ(女性→男性は有罪にされにくい)であるとか、暴力であるとか。そもそもこの男女の二分法自体がもうマイノリティへの差別だと言われかねない。

私自身はというと、ポリコレ的な言動を最近は心がけている。初対面の人間に異性愛前提の発言は絶対しないようにしている(パートナーはいますか?などに言い換える)し、男らしいとか女らしいとか、そういった言葉は久しく使っていない。

そういった言動を心がければ心がけるほど、際限のなさというか、全ての言葉が「現状仮で許されていること」のような気がしてくるのだ。それに、そんなに気を遣ったところで、「配慮しすぎw」みたいな反応をされることもしばしばでモヤる。

そもそも「無党派層」のような、ポリコレのポの字も意識していない人が私の周りの大半であって、遵守しようとも変に反発しようとも思っていない人たちばかり。そんな中で「意識高い」ような振る舞いをすること自体のストレスは、少なからずある。性に関係ないことであれば自分も「無党派」かもしれないし。

そういう曖昧なストレスの捌け口として、「ポリコレうるせぇよな!!」と声高らかに叫ぶ暗黒啓蒙は機能するのだろう。暗黒啓蒙は科学技術やデータ礼賛なので、データに基づいてポリコレを退けられるというところに心底惹かれている人はいてもおかしくないように思える。繰り返すが私は安易な人間ではないので、即信仰!とはならなかった。

ずっと思っていること

こういう本を読むときは、そもそもの「人種問題」とかの背景知識がないと何も入ってこない!
最近は背景知識のなさを嘆くだけの書評が続いている。このフラストレーションが次の教養につながることを信じる。


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