小野寺拓也・田野大輔『ナチスは「良いこと」もしたのか?』【基礎教養部】[20231030] Hirotoのnote

※私が所属している「ジェイラボ」というコミュニティ内での活動noteです。

今月の課題本のタイトルは『ナチスは「良いこと」もしたのか?』。Tsuboさんが書評を書いているので詳細はそちらを参照のこと。

ナチスについてそんなに詳しくなかったので、「へぇ〜!」とはずっとなっていた。そもそも「ナチスは良いこともした」という言説がSNSで流れるようなTL構築をしていなかったため、私の知らないところで起きているSNS上の問題に、私の知らない人が本気で反論しているという感覚で、こんな界隈があるんだなぁという感想が99%である。

残りの1%についてダラダラ述べる。

専門家のトンデモとの向き合い方

専門家はトンデモ素人が嫌いである。時間と労力をかけて必死に向き合ってきた学問(なんならそれで食っている)について、土足でズカズカと素人が乗り込んできて、「ちょっとそれ違くないスカ!?」と大声で主張してくる。これが不快でなくてなんなのだろうか。冷静に反論しても取り合う気がないし、一定以上の長い文章は「簡潔にしろ!」と門前払い。知への冒涜がそこには横たわっている。

専門家のトンデモ素人への向き合い方は大きく分ければ、

  • シカト

  • レスバ

の二種類しかない。レスバをすることに疲れてシカトするようになる人も多いのではないだろうか。

本書の著者は、レスバをすることに疲れたのだろうが、シカトではなく、「想定される(浅い)レスバの決着を長文で全てつけてしまう」ことで、その(浅い)輪廻から逃れようと試みている。
学問的な営みの啓蒙という意味では、まあ理解できる真摯な姿勢と言えるだろう。エセ科学とSNSで戦い続ける道を選んだ自然科学者と重なって見える。

外野がそれっぽいことを言えてしまう

社会科学・人文科学の分野は、テクノロジーに頼る部分を除けば、突き詰めると「自然言語」の運用で成立していると言える。

自然科学は「人工言語(数学)」という障壁があるおかげで、大体のトンデモは「数式使え」で解決するし、自然言語のみで無理やり書かれた「量子力学」の本みたいなものは、数式を使っていないからこそ最大限疑ってかかるべきだとすぐに理解できる(そのような本の場合、著者がしっかりと物理学の権威であることなど、本の外の情報が重要)。

その点、そうでない分野は素人がやいやいヤジを飛ばせてしまう。我々の使っている言語をそのまま適当に運用していればそれっぽい文章は作れるし、見かけが似ているという単純な理由で、トンデモとガチの学問的記述の区別が容易ではない。コンビニに売られている「歴史本」が廃れないのはこのためである。

世の中的には、「正しさ」は「正しいっぽさ」と同義で、その「ぽさ」を演出するために、先述したような「権威」だとか、経たシステムなどが重要視される。

正しさ(正しいっぽさ)の基準とは?

ここでの正しさは、論理的・真的なものであるとする。倫理的なもの(善的な意味)ではない。

これは私の勝手な感覚なのだが、正しさは

  • 依存するもの・必要となるものの少なさ

  • 適用範囲の広さ

によって保証されると感じている。

数学

限られた公理と、限られた操作のみで得られるものだけを結果とする。非常に謙虚な学問である。それゆえ、そんな限られた武器だけでも言えることは限りなく絶対的な真理に近い(っぽい)。

物理学(に近い自然科学)

そんな数学と、五感の適切な拡張による観測のみで得られるものだけを事実とする。そして、それらに基づいた「統一的モデル」を提唱することが仕事である。この「統一的モデル」は導出されるものではなく公理的なもので、その正しさを保証するのは「適用範囲の広さ」に他ならない。反例が見つかったら、少なくともその範囲には適用できないという意味で弱い主張となるし、もっと一般的に適用できる上位互換的モデルが見つかったらそれが「正しい」ものとなる。

歴史学

ここは門外漢なので、間違ったことを書くかもしれない。

科学的な観測によって得られた「現在の情報」を、自然な推論によって全て満たすような「過去起きたであろう事象」。これを事実とする。

この時点で、物理学のときとは大幅に異なっている。まず、物理学的には「現在の情報」のみが事実である。が、歴史学的にはそれを一歩越えて、そこから一番言えそうな「過去の現象」を事実として位置付けているように思える。少なくとも、過去の現象間の因果などを調べようとしているときにはそうであろう。過去の現象間の関係を調べるときに、過去の現象自体が「事実」として認められていなかったら話が進まない。

そして、その「過去の事象」をつなぐ因果や目的や相関を、解釈とする。

その意味で、事実として認めているものの多さ(依存しているものの多さ)の時点で、科学的なものよりも「正しいっぽくない」感がある。そこが原理的な隙であり、素人が陰謀論にハマりやすい理由の一つなのではなかろうか。

まとめ

数学をやっている関係上、世の中で起きている揉め事の大半を「公理のすり合わせがうまくいかなかったんだなぁ」と思う癖があり、今回の本についてもそうとしか思えなかった。
片方は歴史学的な正しさの基準を公理に据えていて、片方はもっと公理が暗黙のブラックボックス。そんな両者の戦いがSNSでは繰り広げられているのだが、内容に立ち入らずに形式的なアドバイスをするなら、

「自分の依って立っている公理」は少なくともメタ認知できていた方が「正しそう」に見えるよ〜

と言ってあげたい。その点、本書では「はじめに」の部分で公理(事実・解釈・意見の分離)をおおっぴろげに披露している点で誠実であり、「正しいっぽい」と言えよう。本書から学ぶべきは、そういった態度の話なのだ。決してナチスの話などではない。

細部に神は宿るが、人は細部に惑わされる。


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