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店じまい

 2月のある日、Tさんから店に電話があった。僕が勤めるホームセンターの総元締めである人だ。この会社は事業部長とか店長とかそういう職位で呼ぶ習慣はない。全部○○さんである。
 僕はこの店の店長で、他に地区を担当する地区責任者というのがあって、僕の直接の上司になる。その地区責任者を飛ばして直接電話をかけてきた。こういう時はだいたいいいことはない。何をやらかしたのだろう。ドキドキしながら受話器をとる。
「お電話かわりました。中阜です」
「おー実はな、その店、潰すことになったから」
 へ?
 突然の発表に僕は固まった。どこかの店を潰すという噂は上がっていた。だが自分の店がそうなるとは、夢にも思わなかった。
 今年で借りていた店舗の契約期限が切れること。20年経って建物も古くなっていること。主要道路が別にできて、交通量が減ることが予想されること。新店を近くに作る予定になっていること。赤字体質であること。
 これが店じまいの理由だ。閉店は4月10日。商品は基本返品。返品できないのは処分。売れる売価で叩き売る。他店に貰ってもらえる分は店間で融通すること。
 そして店を閉店するのは、3月25日まで誰にも喋ってはならないこと。
 マジか。
 従業員にも喋ってはならないとか、ありえない。
 だが業務命令。致しかたない。会社に入ってこんなに苦悩したのは初めてであった。
 店じまいをするとはしらない従業員は春を目指して、商品をたくさん買おうとする。返品するか処分するか、他の店に貰ってもらうか、そうなることもしらずに、できるならあまり買わないでほしい。心の中でそう僕は叫ぶ。買うな、とはいえる立場ではあるが、理由がいえない。どうしたものか。
 工具関係に関しては、僕が一部勝手に発注を止めた。また新商品も当然ながら入れなかった。そしたら問屋から電話がかかってきた。
「中阜さん、なんで、この商品入れてくれてないんですか?他の店は入れてますよ」
「この店には必要ない」の一点張りで逃げ切った。後日、事実がわかってから、「そういう訳だったんですね」といわれた。

 店のメンテナンスも汚かった駐車場も、ゴミ捨て場も、この店にきてから全部、きれいにしたのに、店ごときれいさっぱり捨ててしまう羽目になるとは、トホホである。
 他の店は棚卸が近くに迫り、準備中である。棚卸はこの店は閉店するまではしない。できれば、商品を全部なくしてしまえば、棚卸もしなくていい。閉店することはいえないのだから、この店も棚卸の準備にかかっていた。まあ返品する時に便利かもしれない。棚卸の準備とは主にボルトナット等数えにくいものを括って数えやすくすることである。あと倉庫整理とかがある。
 各店が棚卸の日の三日前、やっと従業員に喋っていいことになった。Tさん自身がきて説明してくれた。まあ形ばかりで、あとは僕がやらなければならないけど。
 店を閉めたあと、パート・アルバイトの人たちはどうするか、今度オープンする新店に行くのか、それとも別の店に行きたいか、それとも辞めるか、それも確認していかなければならない。
 それでも全体的にはまだ誰にも喋ってはいけなかった。棚卸の当日、別の店の店長から電話があった。「棚卸どうでした」「まあまあだよ」適当に胡麻化さなければならない。困ったのは、経理から「棚卸の弁当代が計上されてませんけど」といわれた時だ。さすがにこれはTさんに聞いてくれ、くらいにいいたかったけど、適当に胡麻化した。そのうえで経理には伝えてほしいむねをTさんに伝えた。弁当代だけでなく、いろんな部分でカネのかかるところが変わってくるはずだからである。
 やっと全店会合でうちの店の店じまいが発表された。それから問屋への説明会も行われた。
 これで店じまいの準備が開始された。説明会を終えた問屋たちがゾロゾロ店にきて、商品をどうするか、話をしにきた。できれば全部もって帰ってくれたほうが助かるのだが、そうもいかない。どんどん商品を処分していくことになった。
 とにかく早く無くすには思い切った価格にして、目立つところに陳列していかないと先に進まない。商品が減ってきたら、什器を壊していく。そこに返品商品を箱詰めして置くのだ。これをうちのメンバーだけでしなければならなかった。
 普通は応援部隊がくるものである。僕もそのつもりであったが、丁度、新店を2つ立て続けにオープンさせることになっていたため、応援メンバーなしであった。ありえない。おまけに地区責任者も店にきて一周するなり、僕に丸投げ宣言をして帰っていった。ありえなさすぎる。人数は足りないが、それでもかえって自分より上の人がいないので、責任は重いが、誰の顔色を気にするでもなく、気楽にできていいや、と思い直した。
 返品商品を入れるダンボールが異常に必要だった。他の店にいって、捨てるダンボールを貰うことになったが、それでも足りなかった。商品を買って使った。
 まず最初に園芸ハウスをカラにして、そこに返品商品を箱詰めしたものを置いた。ホース等切り売りはよその店に貰ってもらった。順調に商品が減ってはいるようだったが、まだまだであった。
 あまり協力的でない問屋もいて、そこの商品をどうするかという問題もあった。
 いよいよ閉店の日になった。ガラガラの店で最後の営業であった。閉店すると、そこから棚卸をして、残りの商品の梱包をしなければならなかった。
 トラブルなく店は終了し、といいたいところであるが、閉店後、お客様が1人来店して、どうしてもと、ネコのエサを買っていった。レジを締めた後だったので、他店の売り上げにして、伝票とお金を対象の店へ送るようにした。
 棚卸が始まった。人数が少なかったので、予定より遅れた。そのため梱包作業が深夜にまでなった。
 
 翌日、問屋が返品商品の引き取りに順々にきた。僕は独りで返品伝票の発行をパソコンとプリンタを使ってやっていた。棚卸で数えた数字がすなわち返品数になった。数え間違いもあるだろうが、そこはお互い様、ということになっていた。
 営業中に取りに来てくれた業者もあったので、助かったが、それでも結構な量が残ってしまった。
 応援メンバーはこなかったが、什器のメーカーが什器をばらしにきてくれた。園芸ハウスの返品商品が外れれば、そこが、什器置き場になる。
 あと大量に出るゴミが問題だった。通常くるゴミ屋さんは軽トラで運んでいるのだが、そんなもんじゃあいつまでたっても片付かないだろうと思ったが、ゴミ屋のじいさんは大丈夫とのことだったので、まかせるしかなかった。ゴミの件はTさんにも相談したのだが、相手がやるという異常、まかせるしかないとのことだった。1度、Tさんからゴミの見積もりがきてない、と電話があったが、これからまだまだゴミが出る時なので、「見積もり何てだせません」と啖呵を切った。
 やがてレジの解体、パソコンの解体、電話機の除去がすむと、電気を止めた。これからは園芸ハウスの什器置き場で整理作業があるだけだ。水道も止めろ、とTさんがいってきたので、トイレにいけなくなる、と断った。ガスはプロパンなので、それも業者にもっていってもらった。
 すべてが終り、最後に何が残ったと思います?たくさんの消火器が残ってしまったのだった。捨てるわけにもいかず、業者に引き取りに来てもらうには当時、どこもなかったので、仕方なく、警備会社にお願いして引き取ってもらった。

 各店からあまった什器を取りに来るので、僕らは控えていた。これまでのバタバタが嘘のように暇になった。GWには大分の新店の応援に全員行くことが決まっていた。パート、アルバイトはここで、どうするか最終的に決めてもらった。辞める人、新店に行く人、既存店に行く人。新店に行く人はそれまで有給休暇である。途中まで辞めるといっていたのが、やっぱり行く、といったり、態度を最後まではっきりさせない者もいた。
 そんなある日、1人のパートさんが、「病院にいったら悪性腫瘍といわれた」といきなり報告した。
 癌ではないか。この丸裸状態になって、突然そんなことをいわれても。仕方ないので、総務に丸投げした。後日、皆が他の店に異動になって、新店も出来た頃、このパートさんは若くして亡くなった。まだ40代後半ではなかったろうか。通夜にいき、久しぶりにこの時のメンバーに会った。
 店は全くスッカラカンになった。あとは什器と駐車場にあるゴミの山の処理であった。店内は大家さんに返すのに綺麗にWAXがけを業者にたのんでした。どうせこの古い建物はぶち壊して新しくするのだろうけど、そこは礼儀であろう。
 GWになると我々は大分に1週間、応援にいった。出張旅費ももらった。そのカネで、お疲れ会をした。出張旅費は一晩でなくなってしまった。
 応援が終って再び店に戻ってきた。僕はまだ仕事が残っていたけど、他のメンバーはここでお別れ、別々の店に行くことになっていた。最後に記念撮影をした。タイミングよく大きな虹がかかっていた。

 

 
 

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