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8月6日広島にて

 親父が死んだその年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(平和祈念式典)に母が出席したいというので、俺たち家族も総出で出席することにした。親父は子供の頃、黒い雨に打たれたので、被爆者として認定されていた。
 その手続きをしたのが、大人になってからで、証人を集めるのに苦労したようだったが、案外スムーズにいって、被爆者手帳を取得することができた。
 俺は二十歳を越えて被爆二世になった。
 そもそも平和祈念式典というものは、TVで見た方も多いとは思うが、夏の暑い盛りの8月6日に行われる。原爆が落ちたのがその日の8時15分なので、それに合わせて行われるのである。午前中とはいえ無茶苦茶暑い。
 今でこそ防暑対策が行われ、全てテントで天井を覆い、ミストが出る機械やスポットクーラーで涼しくなるように工夫されているが、当時はそんなものはなかった。
 年寄り一人行かす訳にはいかない。熱中症で倒れたらおおごとである。そう思い、俺と妻と子供たちで一緒に行くことにしたのであった。
 平和公園についてみると、人が多い、人が多い。外国人が特に目立って多かった。それぞれ何かをやっている。写真をとるもの、何をしているかわからないけど、集団で何かやっているもの。お祭りのようだった。
 式典は厳かに行われた。小泉首相(当時)がやってきて、何やらぶつぶつ早口でいうと、サッと帰ってしまった。あっけにとられた。それ以外は例年と同じように黙とうしたり、市議長が式辞を述べたり、市長が平和宣言をしたり、子供の代表が、平和への誓いをしたり、音楽を奏でたりした。
 その間、暑さに耐えるために、防暑対策に、げんこつで叩けば、ものすごく冷たくなる、ホッカイロの逆バージョンと、濡らして冷えるタオルとを携帯していたので、それを使った。
 だが焼け石に水とはまさにこのことであろう。俺は汗びっしょりになった。小さい我が子も汗びっしょりであったが、ちゃんと着替えを持ってきていたので、式典が終るとすぐに着替えてさわやかになった。ところが俺はびしょびしょのワイシャツで気持ち悪い。女性たちは全然平気なのはなぜなのだろう、と不思議に思いながら、自分の不快感を何とかしたかった。婆さんの熱中症を心配して来てみれば、婆さんは平気で、俺だけが汗びっしょり不快指数120%であった。
 ちょうど土産物屋があったので、Tシャツを買って、衆人環視のなか、その場で着替えた。やっとさわやかな気分になれた。
 それからみんなでレストハウスによった。ここは原爆当時からある建物で、すぐ近くで原子爆弾が炸裂したにもかかわらず、屋根が吹き飛ばされ内部は炎上したが、この地下室にいた人は無事だった場所である。
 そして原爆ドームで世界の国旗を持ってパレードするアトラクションをやっていたので、息子が参加した。旗を持って行進して挨拶をするだけだが、どこの国の旗を持っていたかは忘れた。写真を探すのも一苦労なので、あきらめた。
 8月6日平和公園は、不思議なお祭り騒ぎの中にあった。

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