四季の思い出

最近、死別の悲しみを体験された方々の書かれた本をよく読ませてもらっています。その中に日本は四季がはっきりしているから、故人を思い出すときっかけがあると書いてありました。

春には桜であったり、子どものランドセルとか、夏には海とか、秋にも紅葉であったり、冬はクリスマスとか雪であったり他にも故人と過ごした時間が長ければなおさら思い出は多いし、その思い出はふと頭に蘇ってくるのでしょう。

多くの方は季節季節のイベントを楽しい行事としているので、なおさら今まで一緒に良い思い出を作ってきた大切な方がいないことを感じてしまう。結婚や誕生をはじめ、記念日も人によっては大切にしているから思い出します。

私は祖母のことを子どもと体育館に行ったときに卓球台を見て思い出すことがありました。
家に卓球台があって祖母はうまかったので、よく小学生のころは祖母とお寺の御堂で卓球をしてたからですね。
私の場合は祖母は99歳と長寿でしたので、良い思い出としてですが。

月命日もあります。特に最初のうちは亡くなった日だから、その人を感じてしまいます。悪いことではなくて、その人と過ごした思い出が強い分その人を感じるのだと思います。だからそういった日に、僧侶に来てもらったり、誰かが手を合わせに来てくれたり、人が集まったり、祥月命日には法事をしたり、そうやって皆で励まし合ってきたのかもしれません。

悲しみの受け止め方、癒し方、そういったことが書かれている本はたくさんあって、私もはじめに言ったように参考にたくさん読ませていただいているのですが、そこにお父さんを亡くされた女性の方の言葉が載っていました。

「ようやく父の死ではなく、父の人生を思い出すことが出来るようになりました」

とありました。

亡くなったというところから私たちは中々良い思い出や気持ちを感じていくことは難しいのかもしれません。亡くなったというその事実の衝撃が大きいので仕方ありません。

お花を供える、好きだったものを供える、語りかける。
どういう人生を生きて、何を残していかれたのかというところに、時間をかけていずれ辿り着くことが大切で、そのお手伝いが供養なのだと思います。

先日知った詩がありまして、

「桜散る、梅はこぼれる、ツバキおつ、ぼたん崩れる、では人は?」

それぞれの花の最後を素敵に表現されています。では私たちの最後はどう表現すべきでしょうか。おそらく「往く」という表現が一番きれいなのかもしれません。

いつかあの人は死んだという記憶から、寿命を終えて往ったと、そう感じられるようになるときが訪れるのかもしれませんが、中々そう簡単ではありません。

いつもお若い方の枕経にいかせてもらうときに思うことですが、その人が大変な辛い気持ちになっているそういうときに、お役にたてているのかな?と思います。

仏教の言葉よりも何かその悲しみを知っている人の言葉、仏教ももちろん悲しみを知った人が紡いできたものですが、その悲しみを持ち合わせていないのが私です。身内ではまだ祖母との別れしか経験していません。

お若い方が亡くなられた、そんな時に、身近にその別れを経験していない私がどう役に立てるのか、たぶんだから最近は、そういう悲しみを経験された方の本にお世話になっているんだと思います。

マザーテレサさんの言葉にも
「人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でもない、貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思い込むことだ」というものがあります。

急な別れを経験した時には、「何も出来なかった」「もっとこうしていれば」と自分に大きな責任を感じるときです。季節ごとの思い出も、「今はもうあの人はいないんだ」「あの人がいれば」と自分はこの世に必要とされていないという感覚におちいってしまうのでしょう。

その気持ちを人が集まることによって、亡き人に手を合わせることによって、亡き人が自分の中に生きていると感じられることによって、これから先生きていけるとまで言えなくても、まずは今日一日を過ごす力をいただいてきた。私が役に立てているどうこうは置いて、それは間違いのないことであります。

そういった場所に僧侶として参らせてもらうことがこれからもある以上、これからも様々な方と悲しみについて学び、私自身にもやってくる死にも向き合い、四季の思い出を一つ一つ大切にしていきたいです。


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