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【読書記録】名越康文『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』【人生は幻】

名越先生は子どもの頃、「どうせ死ぬのになぜ生きるにか」という疑問を持ち、ひどく恐怖を覚えたという。
私も高校生くらいの頃同じようなことを思い、生きる意味が分からなくなって無気力になっていた時期がありました。
あれはどうしてだったのでしょう。
でも、自分だけではなく、普通の疑問だったのだとこの本を読んで分かりました。


私は、「たまたま生まれただけだから、生きる意味などない」と結論づけていたのですが、そう思って生きるには人生は長いと思うのです。
まあ、次の瞬間には死んでいるかもしれないし、何十年も生きるかもしれないのですが…。
そんな曖昧な世界を生きるには、「生きる指針」のようなものがないとしんどいのではないかなと思うのです。
そしてその答えは、仏教の教えのなかにあるのかもしれません。


以下、心に残った部分を引用します。

 悩みや不安というのは「繰り返し襲ってくる」という性質を持っています。(中略)
 どうして僕らの悩みや不安は振り払っても、振り払ってもなくなることがないのか。それは結局、そうした具体的な一つひとつの悩みの根底にある「漠然とした不安」を、僕らが解消できずにいるからです。(中略)
 なぜこれほど恵まれた生活を送っている僕らの心の中に、不安があるのか。それは、僕らがある一つの「問い」に答えを出していないからです。
 その問いとは、
「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」
 です。

p.14~18

 どんな人生を送ったとしても死んだときにはすべてご破算になるのだとすれば、僕らが日々一生懸命生きる意味はなんでしょう?どうせ死ぬなら、一生懸命働いても、だらだらと怠けて、遊んで過ごしても同じではないでしょうか?勇気を振り絞っても、臆病なまま生きても、同じことではないでしょうか?あらゆる喜びに、あらゆる悲しみに、あらゆる苦しみに意味がないとしたら。僕らが学び、働き、子供を産み、育てることの意味がないとしたら……。
 僕はこれこそが、僕らが一人の例外もなく心の奥底に抱えている「漠然とした不安」の源なのだと思います。

p.21

姿勢がどれだけ安定しているかと、心の中がどれだけ安定しているかということは、ほとんどと言っていいぐらいシンクロしているからです。

p.41

 人が継続的にやる気を出すのはどんなときか。それは「本能レベルでの自発性」が刺激されたときです。
「自発性」というのは、言葉の上で「やるぞ!」とか「やらなきゃ!」と表現されるような気持ちではなく、もっと本能的と言ってもいいぐらい強い「衝動」です。

p.47

「なぜやるのか」「どういう効果があるのか」ということを意識することの弊害は、そんなふうに行によって得られる体験を、先入観によって小さく、矮小化してしまうことにあります。だからこそ行に取り組むときは、できるだけ新鮮な気持ちで、自分がこれまで想像したことも、予想したこともないような体験ができるよう、あまりその仕組みや効果について知らないままただやる、ということが重要なのです。

p.54~55

 言葉や理屈というのは、人を「わかった気」にさせます。しかしそうやって「わかった気になる」ことは、たいていの場合僕らをむしろ「現実」から遠ざけてしまいます。実際、僕らは常日頃から、言葉で現実を解釈しようとし、感情によって自分の都合のいいように現実を歪めて捉えています。それはいわば、自分では簡単に取り外すことのできない「色眼鏡」をかけているようなものです。そして、その結果として僕らはいつも迷い、もがいているのです。

p.58

 怒りや悲しみ、あるいは欲といった強い感情に囚われると、僕らは「怒っている自分」「悲しんでいる自分」「欲にかられている自分」とは違う「平静な心の自分」を思い描けなくなります。
 しかしどれほど心の中で暴風雨が荒れ狂っていたとしても、それはあくまで「心」の働きであり、あなた自身の本当の姿ではない、というのが仏教の教えです。いくら「あなたの心」が荒れ狂っていたとしても、その奥のほうには、静かで、落ち着いて、穏やかな「あなた自身」がいる。(中略)
 怒りや不安といった感情はあまりにもリアルなので、僕らはそれこそが唯一の「私」であり、それ以外の「現実」など存在しない、と思いこんでしまいがちです。
 しかしそれは瞬間ごとに変化し続ける「心」が映し出す一瞬の幻影に過ぎません。どれほど激しい怒り、悲しみ、苦しみであっても、それは必ず一瞬のうちに変わり続けている。

p.73~74

 僕らはしばしば、暗く、気持ちの沈んだ自分を「普通の状態」だと思い込んでしまっています。それを一日一日、行によって気分を明るく、爽やかにして、それを「基準点」にするのです。
「心の基準点」を少しでも〈明るい自分〉に設定しておくことは、静かな心を手に入れるうえで、長期的な効果を生みます。
 どうして心の基準点を上げておっくのが「体質改善」になるのか。それは、心の基準を「明るく、爽やかで気分のいい自分」に置いておいたほうが、怒りや不安といった心の乱れを察知する「センサー」の感度が上がるからです。

p.86

 一日のうち一パーセントでも、文句なしに心が静かに落ち着いた状態をつくっておくこと。たとえそれが一日一回ほんの数分で、しかもそのピーク(爽やかな気分の頂上の部分のことです)はほんの一〇秒ほどであったとしても、毎朝それを繰り返していると、残りの九九パーセントの「自分」よりも、朝の爽やかな「自分」のほうが「本来の自分」だと感じられるようになってくるのです。

p.91

 行によって得られる心の爽やかさというのは、「誰か」から与えられたものではなく、自分の力で得たものです。「自分の力で、自分の心を明るくすることができた」という経験は、その後の人生を送る上で大きな自信につながります。それは「他人に明るくしてもらう」よりも何倍も、何十倍も爽快で、力強い自信になります。行に取り組むときにはぜひ、「心の明るさは自分でつくる」を合い言葉にしてください。

p.99

 自意識を持っていない動物たちは、常に「今、ここ」だけを生きています。それに対し、自意識を持つ人間は過去や未来に紐付けられた「今」を生きています。例えば何かにつまずいて転んだとき、動物は「痛い!」と感じることはあっても、それ以上の意味をそこに付け加えることはおそらくありません。しかし自意識を持つ人間は、同じように転んだときに「こんなことなら日曜の朝から出かけずに家に引きこもっていればよかった……」と過去を悔やんだり、「せっかくのお出かけ用の服が汚れてしまった。これからデートなのにどうしよう」と未来に対して不安を抱いたりするのです。

p.106

 実は、「行」には、このコントロールしがたい「自意識」を小さくする効果があります。行をやることによって心が軽く、明るく、爽やかになるのは、自意識が小さくなった結果です。

p.111

 先にも少し触れましたが、現象学では「現象の変化」をもたらすものには、現実の変化と、(現象を映す)僕らの心の変化の二つがありうること、そして両者を僕らは自分では区別できない、ということを指摘しています。(中略)要するに現象学というのは、「本当に現実が変わった」ということと、「気のせいで変わったように感じる」ということの間には本質的な差がない、ということを言っているわけです。

p.151

 僕らはそれぞれ自分なりに「自分たちの世界はこのようにできている」という世界観を持っています。普通に生活を送っている限り、僕らは自分なりに組み立てた、「この世」の世界観を疑うことはありません。しかし、仏教的な視点から言えば、僕らの頭の中にある世界観というのは、ほとんど例外なく「妄想」であり、本当の世界のありようからかけ離れたものだと考えられます。

p.164


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