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正義感と勇気

 私は、とある中小企業に勤める 一(いち)サラリーマンである。わが社の社長は かなりやり手のワンマン社長として知られている。「要らないヤツは斬る」が口癖の、イケイケな社長だった。

 ある時、その社長と二人で話をする機会があった。何の話をしていた時かは覚えていないが、社長が「ちょっと それはうる覚えでねぇ」と言った。多くの人が間違えて使っている言葉の一つ『うる覚え』。・・・正しくは『うろ覚え』だ。空洞を指す『うろ(空・虚・洞)』が語源なのだそうだ。

 だが その時の私には、ただ「そうでしたか」と言うことしか出来なかった。しかし、後から思えば(間違っているんだから、訂正してもいいんじゃないか!?)と思 う。その時は、咄嗟(とっさ)に (もし訂正したことで社長が気を悪くして「生意気なヤツは斬る」などと言ってきたら)・・・と考え、訂正する勇気がなかった。

 一度「自分は正しいんだ」と思ってしまうと、正義感に似た思いが 徐々に私の中で膨らんでいく。そして何となく釈然としない日々が続いた。

 それからは、社長の顔を見る度に『うる覚え』というワードが頭の中を過(よぎ)る。自分でも、こんなに些細なことを、ここまで気にするとは思っていなかった。

 社長と話をした日から2週間が経った。その頃の私は(今度、社長と話をする機会があったら、ハッキリ『うろ覚え』だと訂正してあげよう)と思うようになっていた。例えそれで「斬る」と言われても その時はその時だ、と半分 開き直った。

 3日後、運よく 社長と二人で話をする機会に恵まれた。私は「社長、先日 お話しした際に『うる覚え』とおっしゃいましたが、正しくは『うろ覚え』です」そう言った。5秒ほどの沈黙の後、社長は笑いながらこう言った。「アッハッハ、そんなことがあったかな?過去のことはもう忘れたよ」私は この時、無性に腹立たしさを覚えた。(オレがこんなに悩んで、やっとのことで言ったのに)そう思うと、悔しかった。そして私は、この一件を社長に話すに至った経緯を事細かに話した。何日も悩んで、悩みぬいた末にこうして話したのだ ということを。この時は後先も考えていなかった。もうどうなってもいいとさえ思っていた。

 すると社長は、無言で 遠くを見ながら しばらく私の話を聞いていた。そして徐(おもむろ)に言った。「すまなかった、私は昔から国語が苦手でな。きっと、うろ覚えだったんだな」そして言った後に、私に向かって「悪かった」と軽く頭を下げた。私は、このイケイケ社長の違う一面を見た気がした。                              完

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