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映画「Barbie」を鑑賞する気がぜんぜん起きない

ヘッダー画像、うろ覚えの記憶でリカちゃんを描いてみました。髪型が思い出せないし、顔も何か違うぜんぜん違う。

「女性向け」のマーケティングとしては間違っていないのでしょうけれど…

 話題の「フェミニズム映画」、「Barbie」。私には、この映画を観たいという感情がぜんぜん湧いてきません。SNSに流れる広告も私には刺さらない。私は、リカちゃん人形を持っていなかったタイプだったので、まずその時点での脱落があるのでしょうね。
 「女性なら、もちろんバービーが大好きだよね?」というのは、「女性向け」のマーケティングの分析としてはぜんぜん間違ってはいないでしょう。けれども、それは「壁」にもなり得る。私は、バービーとかリカちゃんとかといったあの手の人形よりも、もふもふぬいぐるみの方が好きでしたしね。
 (かつてタカラの和製バービーもあったので区別しますが)私が本国産のバービーを知ったのは、たぶん中学生ぐらいになってからだと思います。マガジンハウスの「Olive」に掲載されてたのを見かけたような…。顔が大人っぽくてスタイリッシュでしたが、遊び相手として日本の女児受けする系統だったかどうか。ともかく、私はバービー人形で遊んだことが皆無です。

リカちゃん人形で遊んだことならあります

 とはいえ、リカちゃん人形でなら遊んだことがないわけでもありません。リカちゃん人形といえば、昭和時代のもっとも「売れた」女児向け玩具のひとつ。リカちゃん人形が家にいるという友達はそこそこ多く、小学生低学年の頃にはしばしば遊んだという記憶があります。そんな中、リカちゃんは複数体持ちで、もちろん彼氏もリカちゃんハウスも所持、ドレスもいっぱい持ってるという友達がいました。グランドピアノがあってそこそこデカいお家に住んでいる子でした。おばさんは上品な「奥様」で、今だったら「VERY」妻、といった感じしょうか。
 それで、リカちゃんのあの彼氏、何といいましたっけ? ワタルくんか何かだったと思いますが、とりあえずワタルくんとしておきましょう。そんなお家で、友達はリカちゃん1号とワタルくんを使用し、わたしはリカちゃん2号を使用するというのがいつものスタイルでした。友達は毎回毎回、リカちゃん1号とワタルくんとでおっ始めるのです。セックスを。私のリカちゃん2号は、その2人の間に乱入するでもなく、ただ2人のセックスを傍観させられるのでした。
 友達のおばさんにしてみると、リカちゃんは「VERY」妻らしい上品さで娘に買い与えた玩具だったはずで、今考えると怒られが発生する遊び方だったという気もしますが、まあ、子供でしたしね。

「フェミニズム映画」という推しが強すぎて…

 というわけで、バービーやリカちゃんといったあの手の人形にはどうにもセックスのイメージがまとわりついてしまい(これは確か)、だから映画「Barbie」を観たいと思わない。…のではありません。SNSでの評価が宣伝になっているわけですが、「フェミニズム映画」としての推しが強くてそれだけで観る意欲を失ってしまうのです。「フェミニズムとして観ても面白いよ」というのは、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」もSNSを通しても言われたことで、こちらは観る意欲を失うことなく大変面白く鑑賞しました。この差は何だろうと少々考えてしまいました。
 伝える側の意図がどうあれ、「フェミニズム」として観ることができるかどうかというのは、鑑賞者の判断によるのではないでしょうか。確かに「フェミニズム」についての基礎教養程度がなければ、そういった判断もできませんが。とはいえ、「Barbie」は鑑賞する以前からそういった判断まで押し付けてくる感じで、宣伝(になっている宣伝も含め)がいちいちくどい。

「フェミニズム映画」という名乗りが、どうもダメなようです

 「フェミニズム映画」という名乗りが、どうもダメなんですよね。なぜなら、フェミニズム的に鑑賞できる映画というのは過去にもいくらでもあったので。それは、実は映画監督や製作者側が「フェミニズム」を意図していなかったかもしれないくらいで。それでいて、男性と同等に社会で活躍する女性像や女性の生き様を描いていたり。そうした映画については、私はどうにもフェミニズム的に鑑賞してしまうところがあります。
 暴力と流血の中に自立した女性像が描かれるというのは、60〜70年代の任侠映画にすでにありました。なお、「緋牡丹博徒」や「昭和残侠伝」等を手がけた山下耕作監督は、のちに「極道の妻たち」(1990年「極道の妻たち 最後の戦い」、1993年「新極道の妻たち 覚悟しいや」)の監督も務めています。
 女性全員が与謝野晶子のようにはなれない。とはいえ、腕力や才能がある先人が努力して女性の活躍の場を切り拓いてくれたおかげで今があるという点は、否定のしようがありません。私には、そうした人々を暴力と流血の中に生きた女性に重ねてしまうところがあったりもします。それは私自身の解釈と重々承知していますが、映画を鑑賞するならその程度には自由に観たいんですよね。

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