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どん底の若者は「普通の選択」では飛び出せない

16歳で経験した地獄

高校一年は暗黒の時期だった。
高校に入学してまもなく、母親が亡くなった。うちの両親は事業に失敗し、前年に事業を閉じていたので、収入が途絶えていた。父親も大病をして後遺症が残っていたし、もとから勤労意欲の低い人なので働くことができなかった(なお、父親の病気は自業自得のところがあると思っている)。
母親の死後は、母親の保険金をやりくりしていくことになったが、とにかくお金がなかった。保険金が下りているのでお金はあるのだが、姉が緊縮財政を強いたおかげで、ときには食べるものにも困ることもあった。ある時期から叔母が見かねて家計を管理してくれ、月に数万円ずつ送ってくれるようになったおかげで状況は少し改善された。
しかし、私はこの環境から一日も早く逃げ出したかった。遠方の大学に行き、奨学金とアルバイトで生きてやると思っていた。働かずに家にいる情けない父。姉は母に過剰に甘やかされていたせいで自分で人生を切り開けないだけならともかく、私が幸せになることも邪魔しようとしているように感じる。東京で経済的に苦しくてもいい、家のことを忘れられる場所に行きたかった。
でも、そんな環境で勉強に集中できるはずもなく、成績も悪く、光は見えなかった。


なぜアナウンサーなんて目指すことになったのか

地獄にいたはずの私に光が差し込んだのは、高校1年の秋、NHK主催の放送コンテストの県大会で優勝したときだった。当時の私にはあまりの僥倖であった。自分が目指していたより、ずっと高い成果を出すことができた。
実際に朗読に向いた声質で「才能に近い何か」があったのかもしれないが、こればかりは、私がこれ以上人生に絶望してはならないという神様の采配だったように思う。
このときの周囲の反応にムカついたことは以下の記事参照(笑)。

さらに、2年生では全国大会の準決勝にも残った(準決勝に何人残るかは内緒。たくさんいます)。
田舎のことなので、私の活躍は、新聞やTVで報道され、小中学校の先生、同級生も知るところとなる。たまたま街で会った中学の先生から
「アナウンサーになるんでしょ?大学はどこに行くの?」
と言われ、ちょっとその気になってしまったあたり、私は本当に単純な人間である。
「NHK以外に入れる会社はない」
とものすごい勘違いをしてしまった(笑)。
でも、3年になったらそれなりに悪くない成績をとれるようになったのだから、思い込みの力はすごい。


やっぱり東京でなければならなかった

大学は一浪したものの、私立ではトップといわれる大学に入学できた。これについては、それまでの地獄がどうでもよくなったくらい、家族、親戚に感謝している。国立大学を目指していたし、後期ではある国立大学に受かったが、いま思えば一番行きたかったのはこの大学だったような気がする。試験で訪れた大学の雰囲気がとても気に入って、試験後にひとつの学部しか受けなかったことを後悔していたくらいだ。

いま思えば、東京まで来る必要はなかったかもしれない。地元の大学じゃないとしても、親戚がたくさん住んでいる隣県には旧帝大がある。大学入学前に祖母が亡くなり、祖母宅には叔母が一人で暮らしていたから、下宿しようと思えば部屋は空いていた。大学からは少し離れているが、そこから通えないこともなかったはずだ。

でも、これは大人になった私の判断である。人生を仕切り直したいと思っていた私は、東京に行く必要があった。少しでも実家から遠くて、価値観が変わるような街に住む必要があった。海外でもよかったくらいだ。
いまのような大人になったのは、東京で過ごした大学4年間があってこそのことだと思う。


どん底の人間は「普通ではない選択」をする必要がある

もう若くない年齢になった私は、当時の私に対して、隣県の旧帝大に行けば良かったじゃんと思う。
本音を言うと他人の注目を集めるのは苦手だからアナウンサーなんてありえないし、マスコミの仕事より、メーカーや商社を目指そうよ?と言ってあげたい。メーカーや商社に入るのも大変難しいが、私にはマスコミの入社試験は苦痛だった。メーカーの面接では、特に準備せずとも志望理由を素直に話せば受け入れてもらえた。商社は受けていないが、いま一番面白そうだと感じるのは商社である。
あのどん底にいた高校1年生の私が、東京の大学(できれば一流大学)、それからアナウンサーを目指すなんてどうかしている。
でも、あのときの私は、その場所から、とんでもない高さでジャンプする必要があった。そのためには「普通ではない選択」をする必要があった。

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