見出し画像

資本主義の本質 - 余裕があるから踏み込める -

みなさん、こんにちは。Naseka です。
私は 哲学者・エッセイスト として、
自らを定義しています。

私は特別 裕福なわけではない。
が、衣食住にはさほど頓着せずに
暮らせるという点においては、
経済的に恵まれている部類に入るのであろう。

独身だった頃は
資産運用などにも興味がなく、
収入(給与) - 支出 = 貯金
といった生活だった。
特に意識して金融資産を増やそうとは
考えなかったし、それでいいと思っていた。

…リーマンショック直後の就職だったから、
あのときに資産運用を始めていれば、
今頃 笑いが止まらなかったかもしれない。
(非常にもったいないことをした)

もっとも、それが10年も早ければ
リーマンショックで大損していただろうから、
どちらが良かったとは一概に言えないのだが…

冗長的な前置きはさておき
資産運用を始めて数年来、
資産額の上下とは別に気付いたことがある。

それが、
資産を持てる者が持つことができる余裕
について。

私見だが、これはひとつ
資本主義の本質に近いものではないかと考える。

今回は、そんな話。


資本主義 = 富める者はますます富む

よく資本主義について述べる際、
「富める者がますます富むのが 資本主義である」
といった話を聞いたことはないだろうか。

たとえば株式投資で考えれば、
年間利回り3%の株式を
1万円分 持っていれば、300円もらえる。
(便宜上、株価や税金は考慮しない)

1年間で、ちょっとしたお菓子が買える程度だ。
(ないよりは ありがたいが)

だが同じ株式を1億円分 持っていたらどうか。
年間で300万円の収入だから、
倹しく暮らせば 十分生活ができてしまう。

両者には銘柄の目利きの差はない。
あるのは資産の大きさの違いだけだ。

一般に金融資産でも不動産でも
スケールメリットというものは大きいから、
これこそが
「富める者がますます富む」
ということを表していると言える。

私のように資産が少ない者は
生活のために汗水垂らして働く必要がある傍ら、
ただ持っている資産だけ
(というと語弊はあるが)で
遊んで暮らせる人間が世の中には存在している。

なるほど、そんな格差に怒りを覚えたり、
社会主義や共産主義に傾倒する者が表れるのも
理解できなくはない。
(私個人にはその気はないが)

だが、ちょっと待ってほしい。
たしかに配当や利息の収入の差は
富める者に有利に働いている。

しかし それだけではなく、富める者には
もっと大きなメリットがあるのだ。

綱渡りと橋渡り

突然だが、想像してみてほしい。

あなたはこれから、
落ちたら死ぬこと間違いなしの高さで
崖から崖へ渡らなければならないとする。
もちろん命綱なんてものはない。

よほどぶっ飛んでる人でもない限り、
「失敗したら死ぬ」
という恐怖の中で歩を進めるのは
容易なことではないだろう。

ただ、ここで世界の不平等さが表れる。

「貧しい者」が渡るのは、
平均台のように幅の狭い足場。
体感的には、もはや綱渡りである。

対して「富める者」が渡るのは、
立派な橋のように幅の広い足場。

落ちたら死ぬのは、どちらも同じ。
では、どちらが一歩を踏み出しやすいだろうか?

少なくとも私は「富める者」の方だと思う。
ちょっとでも歩様が乱れれば真っ逆さまな
「貧しい者」よりも
ちょっとくらい横にずれても
どうということはない
「富める者」の方が、
同じ一歩を踏み出すにも
心理的なハードルは低いように感じる。

「失敗しても大丈夫」という余裕

些か例えが分かりづらかったかもしれないが、
要するに同じチャレンジをするにしても
「少しの失敗も許されない」と思うのと
「少しくらい失敗しても大丈夫」と思うのとでは、
踏み出しやすさが違ってくるということなのだ。

お金の話に戻ろう。
私が最近気づいたのは、
学生時代や就職したての頃に比べて、
買い物のハードルが低くなっている
ということだ。

たとえば5千円くらいのガジェットに
興味が湧いたとき、昔だったら
「ハズレだったら嫌だな。
 よく製品情報やレビューを調べてから
 買うか考えよう」
と考えていたのが、今では
「ざっと見たかんじでは良さそうだから、
 買ってしまおう。
 ハズレだったら諦めればいい」
と考えるようになった。

ある意味では、倹約思考から浪費思考に
近付いたのかもしれない。

だが、今の私には数時間・数日も
買うかどうかに悩む時間の方が惜しい。
まさに Time is money の発想である。

実際に何度か失敗してきてもいるが、
それはそれで経験や学びと
捉えることにしている。

感覚的ではあるが、失敗を重ねると
「この点は必ず確認しておかねば」
「これは なんとなくハズレくさいな…」
「これは買っても良さそうだ」
という嗅覚も身についてくる。

何より人は失敗してナンボ、
失敗から学んでナンボだから、
たくさんチャレンジしてたくさん失敗できる
(それが致命傷にならない余裕がある)
という「余裕」こそが
「富める者がますます富む」ことの、
ひいては資本主義そのものの本質ではないか。

つまり「富める者」が得るものは、
金融資産や不動産的な意味での富だけでなく、
「チャレンジや失敗をする機会と経験」
なのだ。

差を埋めるために

今の世の中はスピード勝負なところもあるから、
お金で解決できることはすればいい。
(もちろん知恵で解決を図ることも大切だが)

この点は、残念ながら
「富める者」にアドバンテージがある。
この差は如何ともしがたい。

この資本主義の世界で「富める者」たちと
対等に渡りあっていくためには、
数多くチャレンジをして、
経験値の差を埋めていく必要がある。

私は自らを「富める者」とも
「貧しい者」とも考えていないが、
いずれにしてもチャレンジを止めてはならない。
仮に「貧しい者」であっても、
チャレンジを止めれば
「貧すれば鈍する」で行き詰まるだけだ。

その際に必要なのは、
動産・不動産的な「資産」の代わりになる
「知恵」と「勇気」ではないだろうか。

それこそ、どんな資産にも負けない
人生における最高の「資本」だと思う。

お読みいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?