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お兄ちゃん、またね。


私には4歳年長の兄が1人いる。
聡明で勇敢で公平で、そしてとにかく優しい兄だ。

そう、兄はとても優しかった。

岩の上で何かを喰らう兄妹


兄の優しさについていつかnoteに書きたいと思っていたが、それは少しつらい作業になるため躊躇っていた。
それでも書いてみようと、ようやく心が決まった。

兄は大学を卒業したあと就職し、その翌年には実家を出て1人暮らしを始めた。
1人暮らしを始めて数年たった頃、兄に病気が見つかった。

病気が見つかる数ヶ月前から兄は「ひどく疲れやすい。」「あまり食べられず体重が減っている。」と訴えることがあり、早く受診をするよう勧めていた。

しかし兄は「仕事が忙しいからだと思う。正月休みまで何とか乗り切って、そこでゆっくり休めば治ると思う。」と受診を先延ばしにしていた。

正月が来る前に兄は会社で倒れ、このときに「原発性アルドステロン症」「腎不全」という病名が下された。

兄は即入院となり治療が開始された。
担当医から「本当はすぐに人工透析を始めた方が良い。」と言われたが、兄は透析を頑なに拒んだ。

久々に会う兄はずいぶん痩せて顔色が悪かった。痩せているのに瞼は浮腫んでパンパンだった。
その姿にショックを受け「もっと強く受診を勧めていれば」と悔やまれた。

なぜ人工透析が嫌なのかを尋ねてみた。

「生活が何もかも一変してしまう。
好きな仕事が目一杯できなくなって、あれもこれもダメだと制限されながら生きていくのは僕は耐えられないと思う。」

兄は私と違いアクティブで外向的なタイプであった。
仕事を精力的にこなし、休日は野球やフットサルやゴルフに勤しんでいた。
友人も多くしょっちゅう日帰り温泉巡りやバーベキューや旅行に出掛けていた。
兄の恋人は「趣味が多すぎるのも良いような悪いような」と嘆いていた。

兄の生活や性分から考えると、透析を渋る気持ちも分からなくもないような気もした。

だからと言って「じゃあ治療しなくても良いよ。」というわけにもいかない。
私は根気よく「透析になったからと言って何もかも生活が変わってしまうわけではない。」ということを兄に伝え続けた。

ところが兄は頑として首を縦にはふらなかった。透析は嫌だ、の一点張りである。

私はだんだん腹が立ってきた。

「じゃあお兄ちゃんは周りの人達の気持ちは一切無視して、自分はさっさと死んでも良いということか。
お兄ちゃんはずいぶんワガママで弱虫で自分勝手だな。ガッカリだよ、ぺっぺっ!」

その日は嫌な雰囲気のまま病室を後にした。
普段ならメールを交わす時間になっても兄からのメールは来なかった。

担当医も兄の頑固っぷりに根負けし「それなら」といくつかの治療法を提案してくれた。

2ヶ月半の入院加療を経て何とか体調も血液検査の数値も安定したため1度退院することになり、薬物療法と食事療法(タンパクと塩分制限)で経過を観ることになった。

あれだけ頑なに人工透析を拒んだだけあって、病気と診断されてから6年近く兄は外来加療だけで乗り切った。

その間も様々な趣味(マウンテンバイクやスキー、スノーボード、サーフィン、ビリヤード)に手を出しては楽しそうに日々を過ごしていた。

しかしじわじわと確実に兄の腎機能は低下していき、体調も目に見えて悪化していった。
その頃には兄自身が1番わかっていたのだろう。
「そろそろ限界なんだろうなあ。」と口にするようになっていた。

一方で両親と私はあることを考え始めていた。

生体腎臓移植である。

次の受診で担当医に移植の相談をした。
兄が最も驚いていた。
担当医はとても親身に「ここの病院では件数が少ないから」と別の医療機関をいくつかピックアップしてくれた。

兄は虎の門病院へ転院となった。

新しい担当医が兄に「移植をするにしても少しでも全身状態を良くしておく必要があるので、半年くらいは透析を頑張ってほしい。」と言うと、兄は2つ返事で「はい。」と答えた。

週に3日は夕方早めに会社を早退し、夜間の透析を受ける日々が始まった。

兄は泣き言ひとつ言わず、それどころか「透析センターの夕飯は旨い。」「かをちゃんと同じ看護学校を卒業したオバちゃんナースがいるよ。」「男性技師さんと仲良くなって今度フットサルを一緒にやることになった。」と透析ライフを満喫していた。

おそるべし社交性である。
私の社交性は全て兄に持っていかれたのかもしれない。

話は変わり。

誰がドナーになるか問題である。

「私がやる。」
「いや俺がやる。」
「いやいや私がやる。」
……ダチョウ倶楽部か。

いくら兄が大切だからと言って、私たちの腎臓を3個すべて移植するのはどうなのか。
いくら何でも多い気がする。

担当医は「同じ血液型が望ましい」と言っていた。
兄はA型。母と私もA型。
この時点でB型の父は脱落だ。
(出来ないことはないが、当時は脾臓の摘出術が必要であった)

そして「体格が同じくらいで腎臓の大きさも同じくらいだと良い。」とも言っていた。
母は身長140センチ台、体重43kgの小ぢんまりちゃんである。
兄は柔道を習っておりガッシリしている。

これはもう私しかいない。
お兄ちゃんを助けるのは私だ。
お兄ちゃん待ってろ!

きかん坊と呼ばれていた妹

もしかして私は兄を助けるためにまるまると育っていたのではないか。
ダイエットに成功しなくて本当に良かった。
心からそう思った。

担当医も「兄妹が適合しやすいというのは確かにあるからね。」と笑顔で言ってくれた。

それなのに。

「僕はかをの腎臓はもらわない。」

と兄は言った。
「……なんで?」
「………なんでも。」
「なんで?先生も兄妹のは適合しやすいって言ってたよ。」
「それでもお前のは僕はもらわない。」

…ブチッ。


おい、この野郎!!
ワガママもいい加減にしねえか!
私の腎臓がもらえねぇってえのか!
表にでろ!!

悲しみと腹立たしさで涙が溢れてきた。
家に帰ってからも部屋にとじこもり泣いていた。
兄の気持ちが私は全く分からなかった。

半年の透析治療により兄の状態も改善され、結局は母の左腎が兄に移植されることになった。
ちなみに母の腎臓は体格の割にご立派で、担当医は「息子さんにあげるために大きくなったのかな。」と笑っていた。

私も自分の腎臓が兄にフラれたショックからはとっくに立ち直り、とにかく母と兄の手術が無事に終われば良いと心から願う日々であった。

移植手術まであと数日という頃だったか。
母が「お兄ちゃんがアナタの腎臓をもらわない、と言ったことだけどね」と話し始めた。
私は「ああ、あれね。妹からってのがイヤだったんでしょ、きっと。」と母の言葉を遮った。
すると母は兄の言葉をそのまま私に教えた。

「僕の病気は遺伝の可能性があると先生に言われた。
将来かをが産んだ子どもがもし僕と同じ病気になってしまったら、その時かをは子どもに腎臓をあげるべきだ。
僕に腎臓を使ってしまったら、もう子どもへはあげられなくなる。
その時かをは絶対に苦しむことになる。」

だから私の腎臓はもらわない、と。

私はここが大部屋だということも忘れ、大声でわんわん泣いてしまった。
そうだ、兄はそういう人間だった。
小さい頃からいつも兄は私の少し前に立ち、私のことを守ってくれていた。
大人になってからもそれはずっと変わらなかった。

私は兄の病室に行き、椅子に座りわんわん泣き続けた。
兄は何も言わず、ときどき困ったようにあまり面白くはない変顔をして見せた。

腎臓移植は成功し、兄は嘘みたいに元気になった。
以前のようにバリバリ仕事をし、あちこち飛び回り趣味も目一杯たのしんだ。
結婚の話もチラッと聞こえてきていた。
何かを取り戻すかのように日々を満喫していた。

兄も私たち家族も平穏無事な日々を過ごしており、こんな日々がこの先もまだまだ続いていくのだろうと思っていた。

ところが移植をしてたった1年後に兄は亡くなってしまった。
あまりにも突然で、あまりにも呆気なかった。
急性心筋梗塞だった。
亡くなる10日前には定期受診で精密検査も受けており「問題なかった!」と嬉しそうに言っていた。

出勤時間をすぎても会社に姿を現さない兄を不審に思った上司が実家へ電話をくれた。
「無断の遅刻も欠勤も今まで1度もないし、電話にも出ないなんてことは初めてです。」

兄のマンションへ向かう車の中で、父は母に「おそらくダメだろうから覚悟しなさい。」と告げたそうだ。
また、私への連絡は「看護に影響するから仕事が終わる頃に」と決めたという。
私に連絡が入ったのは、仕事が終わり職員通用口から出る時であった。
そのときの記憶は殆ど残っていない。

兄は亡くなったとき35歳であった。
周りは皆「あまりにも早い」「若すぎる」と口にした。

兄は確かにまだ若かった。
しかし兄は人生を、自分の「世界」というものを、端から端まで楽しいこともつらいことも全て拾い残すことのないように丁寧に生ききった。

たくさんの人に慕われ愛され、皆の心の中に満面の笑みの記憶だけを残して兄はパッと空へかえってしまった。

兄が去って14年という月日が流れた今もなお、兄の友人や会社の人達が兄の寝床(お墓)に集まって皆で楽しそうにお喋りをして笑っている。

少し離れたところから見ていると、その輪の中にはお兄ちゃんの姿も確かにある。
皆んなの話に笑いながら私を見つけ、あの満面の笑みで「かを!ここだよ!」と私を呼ぶ兄の柔らかな声が春風に混じって聞こえた気がした。

大好きなお兄ちゃん、
大好きなままでまたね。

お兄ちゃん、またね。







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