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箱の中のカブトムシ

「箱の中のカブトムシ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
まず、以下の引用をお読み頂きたい。

”ウィトゲンシュタインは、人がめいめい「カブトムシ」の入った箱を持っているコミュニティーを想像するように勧める。「誰も他人の箱の中を見ることはできず、皆が自分は『自分の』カブトムシを見ることによってのみカブトムシとは何かを知ると言っている」[16]。 これらの人々が「カブトムシ」と言う言葉を使っても、それは何物をも指示しえない―何故ならばそれぞれの人が箱の中に入れているものが全く異なっているか、箱の中のものが常に変化していたり、箱の中が空だったということが完全に可能だから。箱の内容はいかなる言語ゲームでも無意味となる。“

wikipediaより引用

ということである。
それでは皆様ご一緒に。
せーの、、、

なんのこっちゃ!!


そう。なんのこっちゃ、なのである。
ウィトゲンシュタインさんは哲学者なので、これを読んだ私達が「なんのこっちゃ」という感想を抱くことはある意味正解なのである。

哲学者でもなく、ただのしがない精神科看護師である私が「箱の中のカブトムシ」を説明するとしたら、以下のような感じになる。

たとえば5〜6人(人数は7〜8人でも10〜12人でも50〜100人でも構わない)の性別、年齢、国籍などバラバラな人達が集まっているとする。
そこにいる全員が1つずつ「カブトムシ」の入った箱を持っている。

私は硬い虫が特に苦手なので、出来たらその集会には招かれたくない。
今回はそういう話ではないので、私の虫嫌いの話は今はちょっとあっちに行っててもらう。
(後でまた呼ぶかもしれない。)

「カブトムシと呼ばれるもの」が入った箱を皆が持っているが、その箱の中身は自分にしか見えない。
そこに居る皆が「カブトムシ」という共通言語を使い、それについての会話を交わすことは可能である。
しかし先ほども言った通り、それぞれが自分の箱の中身しか見えていない。
そのため、自分以外の人が持っている箱の中の物が「自分が認識している『カブトムシ』と同じもの」とは限らない。


ウィトゲンシュタインさんはそういうことを言いたかったのだ。



………どういうこと?


これだから哲学ってヤツぁよう。
掘り下げても掘り下げても底がなく、紐を手繰っても手繰っても端が見当たらない。それが哲学だ。
私は硬い虫は苦手だが、哲学は好きだ。
哲学の授業だけは真剣に聴き、成績も哲学だけは唯一まともだった。
他の授業はというと、程よい高さに積み上げた教科書の上にタオルを敷き、それを枕にして居眠りをしていた。
解剖生理学+基礎看護論+基礎看護技術、そこに物理の教科書を重ねた高さがちょうど良かった。
教科書で押し潰された寝顔が本当にぶすだ、と友達に言われていた。

いや、私の寝顔の話はどうでも良い。

ウィトちゃん(ウィトゲンシュタインて覚えにくいので)は「いいかい、お嬢さん。人の痛みや苦痛なんてぇものはよう、その人にしか分からねえってもんよ。なあ、そう思わねぇかい?」ということを言いたいのではないか。

そしてウィトちゃんの「私的言語論」を良い感じの歌にしてくれたのがBUMP OF CHICKENである。
名曲「真っ赤な空を見ただろうか」にウィトちゃんの「箱の中のカブトムシ」的な歌詞が出てくる。

”あいつの痛みはあいつのもの
分けて貰う手段が解らない
だけど力になりたがる
こいつの痛みもこいつのもの“

「真っ赤な空を見ただろうか」より

めちゃめちゃ良い歌だ。
この続きも本当に素晴らしい歌詞がこれでもか、これでもか、と綴られている。
聴いたことのない方は、この機会に是非ともお聴き頂き♪ラーラーララララ ララーララーラ♪と一緒に口ずさんで頂きたい。

さて。
「箱の中のカブトムシ」は、私が普段お仕事をする上で非常に大事にしている考え方の1つである。

私は患者さんと対面して話をする機会が多い。大きくは2つで、1つは「初診前の予診(問診)」もう1つは「心理面談」である。
「問診」は初めて会う患者さんと、一方「心理面談」は既に顔なじみの患者さんと対話をするものである。
いずれの対話も時間にして40〜50分であり、これは非常に労力を使うものではあるが、これこそが精神科看護師としての1番の腕の見せどころとなる。

何故なら問診や面談で患者さんとの信頼関係を築き、患者さんが抱えているものを安心して吐き出せるようになることが治療の大きな一歩となるからである。

問診も面談も上手く機能すれば治療の近道となりうるが、逆を言えば患者さんを余計に傷つけてしまったり、患者さんが心の扉を固く閉ざしてしまうこともありうる。

信頼関係を築くうえで「箱の中のカブトムシ」は絶対に忘れてはならない大事なことである。

患者さんの言う「カブトムシ」を、私の思う「カブトムシ」と同じだと思い込んではいけないのだ。

精神科ではよく「受容」と「共感」といった言葉が使われる。
受け容れて共感する。
一見シンプルで簡単そうに見えるが、これがなかなかどうして難しい。

患者さんへの「共感」を「わかるわかる〜」「私も同じ!」というリアクションで現せるとしたら、どれだけ簡単だろう。
しかし、それは「共感」ではない。
共感のように見えても「勘違い共感」「なんちゃって共感」であることが多いのだ。

解ってはいけない。


え、精神科って解ってくれるところじゃないの?
話をしても受け入れて共感してもらえないの?
ひどい!冷徹!人でなし!ごくつぶし!
寝顔ぶす!!起きててもぶす!!

そう思ったそこの貴方、もう少し話を聞いて頂きたい。
(あと、ぶす!て言った人は後でシバく。)

ここで「箱の中のカブトムシ」の登場である。
患者さんと私がそれぞれ箱を持っている。
患者さんの箱の中には「カブトムシ」が入っており、私の箱の中には「カブトムシ」と私が認識している「カリントまんじゅう」が入っているとする。

患者さんが「私はカブトムシを持っている」と言い、私も「え!私もカブトムシ持ってる!同じだね!」と言う。
この時点で「カブトムシ」という共通言語を使っているため、患者さんと私は同じものについて話をしているように見える。

私は患者さんに「あなたのカブトムシ、どういうやつ?」と訊ね、患者さんは「外側は茶色っぽくて硬いんだよ。」と答える。
私は「テカテカしてる?」と尚も訊ねる。「そう!テカテカしてツヤがある!」と患者さん。
「少し丸みを帯びてる?」「うん、少しだけね。」と会話は続く。
もう絶対カブトムシじゃん、完全に同じじゃん!!とお互い信じ込む。
会話が盛り上がってきたころ、ふと患者さんが「カブトムシって飛ぶとカッコいいよね」と口にする。
私はそこで「おや?」と思う。
「え、カブトムシって飛ばなくなくなくない?」と不思議に思う。
私の箱の中の、私が「カブトムシ」と認識しているものは絶対に飛ばないから。

だってカリントまんじゅうだぜ?



というように。
カブトムシとカリントまんじゅうという全く違うものを抱えた2人でも「共通の」あるいは「同じもの」としての会話が表面上は滑らかに進んでしまうことが起きうるのだ。
(なぜ私がカリントまんじゅうを「カブトムシ」と認識したかということにはこだわらないで欲しい。)

患者さんとの間でこういったズレが起きてしまうのはとても恐ろしいことである。

臨床で患者さんに対し「すごくよくわかります。私も同じです。」と連発し、「私はあの患者さんを理解してあげられる」と口にするスタッフをたまに見かけるが、そういったスタッフを見るたびに私は「なんとおこがましいのだろう。」と感じる。

簡単に理解すな!


患者さんが「悲しい」という表現で吐き出したとき、その悲しみを本当の意味で「解ること」も「知ること」も私たちには出来ない。
どれだけ患者さんに心を寄せ、その患者さんの「悲しみ」を理解しようと努めても、結局は自分の体験を通して感じたことのある「悲しみ」しか私達には解らないのだ。
「痛み」や「苦しみ」、「孤独」や「不安」も同じである。
その言葉を「知っている」「解っている」と感じても、患者さんの箱の中にある「それ」は患者さんにしか解らないのだ。

「解らない」ということを解る。
これが精神科看護の初めの一歩のような気がする。

だからこそ「理解しようとする姿勢」が大切なのである。
患者さんには常に「あなたと完全に同じものを共有し、理解することは出来ないが、それでもあなたを少しでも理解したいと思っている。」と伝え続けることが大事なのだと私は思う。
というよりも、それしかできないのかもしれない。


私は問診でも面談でもさんざん話を聞いておきながら「解らないなあ。」と意識的に留まるようにしている。
それでも「あれはきっとこういうことを言いたかったのだろう」とか「これは◯◯症状かな」とか、ついつい推測や判断をしてしまいそうになる。
そういうときは慌てて「いやいや。解らない解らない。ひと休みひと休み。」と唱えるようにする。一休さんのマインドである。
「解った気になる」ことほど恐ろしいことはないから。

患者さんも、そして私も「それぞれが大事な箱を持っている」ということをいつも想像するのだ。
その箱の中のものをそうっと取り出して対話する。
患者さんが口にする「カブトムシ」が、自分の「カブトムシ」と同じだと思わないように気をつけながら。

箱の中は自分にしか見えない。
患者さんの箱の中が患者さんにしか見えないように、私の箱の中も私にしか見えない。

聴くことも、そして伝えることも、なんと難しい作業なのだろう。

そして、これは何も患者さんに対してだけではない。
看護学生さんも、これから共に働く新人さんも同僚も、医師たちも、友人も家族も道行く人も。要は自分以外の誰もが「箱の中のカブトムシ」を持っている。

私には、顔を合わせれば意見が衝突する腐れ縁のような医師がいるのだが、その医師につい「普通はこうでしょうよ!!なんで解らないかなあ!!」ときつく当たると「あなたの言う普通ってのはあなただけの普通だろ!!」と言い返される。
そこで私が尚も「私の言う「普通」は『一般的』という意味です(←嫌な感じの敬語)。一般的というのは、例えるならば100%のうち70〜80%を占める意見のことを指しています。」と食い下がると、医師はもうプンップンにヘソを曲げて手に負えなくなる。
仕事に支障が出る。
これは例えるなら、私が医師の箱の中の「カブトムシ」を強引に引きずり出し、室伏広治さながら力いっぱい遠くへ放り投げ、さらに自分の「カブトムシ」を医師の箱の中へとグイグイ押し込むようなものである。

自分の「箱の中のカブトムシ」を大事に扱ってもらいたいのであれば、当然、自分以外の誰かの「箱の中のカブトムシ」も尊重し、大事にするべきなのだ。
それが信頼関係を築き、円滑な人間関係を維持するコツだと考える。

話は変わるが。
この春、これまで何年もの間「箱の中のカブトムシ」を持て余したりウンザリしたり、時には捨てたくなったりしながら幾度も幾度も対話を重ねてきた患者さん達が、それぞれの新しい場所へと巣立っていった。

何名かは看護師として働き始める。
他にも、休学していた学校に復学する子、長年の引きこもりから抜け出してバイトを始めた子、思い切って編入して新しい学校で学び直しをする子、結婚して新しい土地で生活を始める子もいる。

晴れやかな笑顔で「ありがとうございました」と「さようなら」を告げた子達の後ろ姿はとても美しく、胸が締めつけられた。

あの子達の箱の中の「カブトムシ」はどうしているだろうか。
どうなったのだろうか。
そもそもどんな「カブトムシ」が入っていたのかさえ私には解らないままだ。
私の箱の中は今、あの美しい笑顔と凛々しい後ろ姿への感嘆の気持ちでいっぱいである。
この「感嘆」もまた、どんな言葉を使っても正確に伝えることは簡単ではない。
この素晴らしい「感嘆」を、私の「箱の中のカブトムシ」を皆にそのまま伝えることが出来たらどれだけ良いだろう。

ちなみに「感嘆」と「簡単」はシャレではない。
絶対に、絶対にシャレではない。
たまたまだ。

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