父の決断
最近の父についてである。
簡単に言うと普通に過ごしている。
父の「普通」が一般的に「普通」かどうかは今は置いておくとして、とにかくリウマチであることも進行性の胃がんであることも本人も家族も忘れてしまうほど普通に過ごしている。
先日、外科チームの医師達から手術に関する説明を聞いてきた。
「胃の下方にあるものは開腹しなくても取れる可能性がある。
上方のクソデカがんは開腹術となる。
この場合は二段階の手術となってしまうが、胃の3分の1は残せるだろう。
ただ、胃壁が癌化しやすい状態にあり怪しい所見はまだまだある。
そう考えると胃を全摘してしまうというのも1つの手である。」
というような話であった。
父は当初より「良いよ、良いよ。ぜんぶ取っちゃうよ。胃なんてあってもなくても本人には分からねえんだから。現に今まで俺は胃の存在なんて意識したことなかったぞ。」と胃が聞いたらガッカリするようなことを言っていた。
あれだけたくさん食べておいて。
あれだけたくさん飲んでおいて。
なんて薄情な男だろう。
弄ばれて捨てられる胃の気持ちを考えてみろ、と言いたい。
胃が「私のことは消化目当てだったのね」と泣いているぞ。
……何の話だ。
そう。父の話である。
結局は医師チームは「ご本人の希望の形で最善を尽くします。」ということであった。
「1週間よく考えて来週その答えを教えて下さい。」と。
手術を受けるのも、その後これまでとは違う生活となり生きていくのも父である。
父本人が決めるのが1番いいと私も思った。
帰り道では誰も手術に関する話はしなかった。
帰宅して夕食を摂ってる間もまた、父本人も母も私も手術の話はしなかった。
相変わらず父のくだらない話や、私の職場の話などで終わった。
翌朝いつも通り父が1番最後に食卓につく。
「あのね、胃だけどね、」
おお!来たぞ!
決めたようだ。ドキドキする。
私は(全摘かあ…退院したら食事管理が大変になるなあ。ダンピング症候群のことも話しておいたほうが良いのかな…)と頭の中で考えていた。
「1センチで良いから残してもらう。」
え!?…1センチ!?
逆に1センチだけ残すほうが難しそうなものだが、父は一晩の間に「自分の胃を1センチのダイスチーズ大に残す」という結論に至ったのだ。
一応なぜそう決めたのか尋ねると父はこう答えた。
「最後はね、何が1番楽しいかを考えたんだよねえ。
俺は家族そろって1日3回のゴハンを食べる時間が1番楽しいんだよねえ。
胃袋が少しでも残ってたほうが少しでも長く一緒に食べていられそうでしょ。」
素晴らしい決断だ。
私は父の決断を全力で支え応援しようと思う。
父の思いに感動していると次の言葉も飛び出した。
「そもそも胃袋いらないわけねえんだよ!
いらない臓物がついてるわけねえもんなあ!」
私の感動が全速力で遠ざかっていく。
さて。
この記事では最近の父の様子を綴ると同時に、幼い頃から私が叩きこまれてきた「父の教え」についてもさりげなく綴っている。
「楽しいかどうか」
父はとにかく「楽しいかどうかの視点を優先すること」を兄にも私にも教えこんできた。
「基本的に生きていくことは大変なのだから、少しでも楽しい方を選びなさい」と。
「それ楽しい?」
「今ほんとうに楽しいの?」
「楽しくないならやめっちめぇ!」
何度も何度も父から言われてきた言葉だ。
おかげでいつの間にか自分で自分に尋ねることが出来るようになった。
「ちゃんと楽しい?」
「楽しくなくなってきてるんじゃない?」
「楽しいのはどっちだと思う?」
今まで私は出来るだけ楽しい方を選んでここまで来た。
結果、もちろん楽しく生きている。
「楽しい」の師匠である父が選んだ決断だ。
上手く行くに決まっている。
父は手術を乗り越えて「ほーら、楽しい方が良かっただろう?」とドヤ顔で言うだろう。
その日を私は楽しみに待っている。