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1月なんて嫌い

明けましておめでとうございます。


なーんつって。もう1月も下旬だ。
つまり1月が間もなく終わるということであり、2月がすぐそこまで迫ってきているということになる。
恵方巻が楽しみだ。


…………ていうか早くない?


1月の体感7日くらいだ。
これには理由がある。ちゃんとある。
これからその理由について勢いよく書きなぐって行こうと思う。

私は1月に腹を立てている。
今年の1月は嫌いだ。大っ嫌いだ。
ひっぱたいてやりたいほど嫌いだ。

さて2024年である。
2024年の1月1日は「一粒万倍日と天赦日が重なる最強開運日」ということであった。
ところが蓋をあけてみると、大きな地震に見舞われるという悲しみのスタートを切った。その翌日には空港での飛行機事故である。にわかには信じ難い。

私達家族もテレビの報道を観ながら「何かおかしいよね。」「こんなこと無いよね。」と、何となく落ち込んで暗い気持ちになっていた。

それでも日々は待ったなしでどんどん流れる。
仕事も始まり、慌ただしい「我が家の日常」というものに慣れてきた頃、唐突にアイツがやってきた。

新型コロナである。

1月7日の朝から咽頭痛と強い頭痛があった。
2日前(潜伏期間48時間と考え)の行動を猛スピードで回想する。
その日は1日中、外来で処置に追われていたはずだ。
採血祭が開催されていた。
確か熱発者もいた。待合室ではゴボゴボと咳をする音があちこちから聞こえ、マスク拒否の患者さんもいた。
考えているうちに恐怖で体が震え出した。いや違う、これは恐怖ではなくシバリングだ。案の定、この時点で私の熱は38.9℃まで上がっていた。
それまでは立って歩けていたのに、熱の数字を見たら急に歩けなくなった。
雰囲気に飲まれやすい私である。
なんて素直なのだろう。

職場から支給されている検査キットを四つんばいで取り出し、仰向けのまま検査を行う。
鼻咽頭を拭った綿棒には見たことない色の鼻水&鼻血が付着していた。
この時点で完全に自信があったが、やはり私はコロナ陽性であった。
悪い予感ほど当たるものである。

職場に連絡を入れ、内科の予約を取る。(四つんばいで)
同居家族である父と母の検査をする。
(四つんばいで)
幸いにも両親は陰性であり、心からホッとした。(もちろん四つんばいで)

処方された薬を飲みながら、座敷牢にこもり鬱々と療養すること数日。
熱は最高で39.7℃まで上がったが、もう何が何やら分からない状態であり、辛いのか辛くないのかもよく分からなかった。

ただ療養中に何度か、真っ白で体の大きな男性に「おい。さっきから呼んでるだろう。」「今なんて言った?」と話しかけられ、そのつど私も律儀に返事をしており、頭は少しアレになっていたかもしれない。

症状が多少軽くなってきた頃、今度は母親がガサガサ声になり熱発した。
受診したところ、やはりコロナ陽性であった。
いくら私が座敷牢に閉じこもっていたとは言え、やはり一般家庭での隔離には無理があるのだろう。
しかし、まだこのときの母の熱は37℃ちょっとの微熱であり、本人も「1回目のときより辛くない。」と言っていたため安心していた。

そう。
私と母は2回目のコロナ感染である。
2022年の12月に父→母→私、と数日遅れで全滅した。
このとき母と私はKinKi Kidsのコンサート2公演を諦めることとなり、隣同士の部屋ですすり泣きしていた。
忘れもしない、あれはクリスマスのことだ。

今回(2024年)父は感染していない。
年齢的にも体の状態(リウマチ、胃がんの術後)的にも、とにかく父のコロナ感染だけは避けなければいけない。

母と私が感染したことで、今度は父を座敷牢に閉じ込めることにした。
コロナ感染チームが自由を手に入れ、健康な者が閉じ込められるという非情な時代の到来である。

1月12日の夜、母の部屋から「ウァーっ!」「ダァー!!」と断続的に叫び声が聞こえてきた。
様子を見に行くと爛々と輝く瞳で私を見て「わざとやってるの。」と言うではないか。まだ何も聞いていないのに。
怖い。
「え、わざとなの?」
「そうだよ。」
「寝れないの?」
「辛いからやけ起こしてるの。」

やけを起こす70歳の母。


なかなか衝撃的である。
恐る恐る熱を測ると39.7℃もある。
やはりこれは、母も頭がアレになっているのではないか。
アイスノンを替え、冷えピタを貼り直し、湯たんぽの湯を変える。
腋窩(脇の下)にも保冷剤を押し込む。水を飲ませる。
「少しでも寝れると良いね。あと、あんまり大声だすとお父さんも驚くから少し静かにね。」と母に伝え、自分の部屋に戻る。

私もまだ熱があったためヨロヨロしながら布団に横たわる。ああ、全身が痛い。
すると再び「ダァーーーーっ!!」「ウォアーーーっ!!」「ダーーー!!」である。
30分から1時間ごとに繰り返される母の奇声。
アントニオ母。お母さん猪木。

元気ですかーーー!!


死にそうである。

幽閉の刑を受けている父もさすがに心配し、母へ声を掛けているようだ。
「わざとやってるの」と言われ、父も恐怖で震え上がっていることだろう。

普段の穏やかで優しい菩薩のような母と、燃える闘魂の猪木イズムな母のことを交互に思い浮かべながら「認知症になり、人が変わったようになってしまうというのはこんな感じだろうか」と、私は薄れゆく意識の中でボンヤリ考えていた。

こうしてアントニオ母のアイスノンと湯たんぽをひたすら交換する地獄の一夜を何とか乗り越えた。

朝になっても母は解熱せず、それどころか水分も吐いてしまう状態に陥った。
強い吐き気があり、40℃近い熱が続いている。
救急受診先を探し、何軒も何軒も受け入れを断られた。
コロナ感染者数が増えていることの表れだろう。
電話口の看護師さんは皆「本当にすみません。満床で、救急外来もパンクしていて…」と、すまなそうに口にしていた。

そうこうしているうちに母が「吐き気おさまってきた。このまま家にいたい。」と悟りを開いたかのような顔で言い出した。

ダメだ。もう何も考えられない。
私の熱もガンガンに上がってきている。

そんな中、毎度おなじみの父である。
「ねえ、悪いけどアイスノンとおかゆとポカリ買ってきてくれる?」と頼むと「アイスノンてどこで買えるの?」「おかゆはどうやって売ってる?」「ポカリってどういうやつか見せて。」である。

ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
この男は何故こうなのだろう。
普段から何もせず、家のどこに何があるかも一切わからない馬鹿野郎である。
掃除機をかけた日に限って爪を切り、風呂に入ればあちこち泡だらけにし、足も屁も臭い。

そんな父に買ってきてほしいものを1つ1つ説明し、ようやく出かけて行ったと思ったらすぐにインターホンを鳴らして帰ってきた。そして父はアホみたいな顔で私にこう尋ねた。
「なあ、アイスノンのサイズは〜?」

ねえよ!!!


S・M・Lか!?
それともショート、トール、グランデか!?
健康体だったら笑いながらツッコめたかもしれないが、コロナ患者にツッコミを担わせるのはあまりにむごい。

父があまりにも役に立たないため、私の隔離期間があけたときは泣くほど嬉しかった。買い物や母の看病を思う様できる。
ところが母の容態はなかなか良くならず私は心身ともに疲弊しきっていた。

コンビニからの帰り道、急に心細くなり大声で泣きたくなった。
「コロナって何なんだよ。
これのどこが普通の風邪なんだよ。
全然良くならないじゃないか。
せっかく回復してきていたギランバレーの症状もひどくなったじゃないか。
ドリアン・ロロブリジーダの歌謡ショーも観に行けなくなったじゃないか。
去年はKinKi Kidsだぞ、ふざけるな。」
泣きながら、文句を言いながら私は歩いた。

最低の1月、最低の年明け。
この先の1年に不安しかない。

母は感染から5日目にようやく解熱し、食事も摂れるようになった。
雄叫びを上げることもなくなり、アントニオ母は幻と消えた。

こうして母と私は2度目のコロナにも打ち勝ったのであった。
めでたしめでたし。



と思うじゃん?


ここからが本題なのである。
ここから先に書くことと比べれば、母と私のコロナなど屁でもないのだ。
これだけなら、1月のこともまだ嫌いにならずに済みそうだ。
いや「嫌いだけれど挨拶や日常会話くらいなら交わしても良いかな」くらいの「嫌い」で済みそうだ。
ところが、ここからが本当の2024年1月の恐ろしさであり底力である。

1月17日のことだ。
仕事を終えた私はコロナ罹患後ということもあり、疲れ果てて帰宅した。
入浴と食事を早々に終え、20:30という幼児でもまだまだ起きているであろう時間にさっさと床についた。
あっという間に眠っていた。

21:30頃、何やら話し声で目が覚めた。
「何それ?」「◯◯さんの真似?」という母の声だ。父に話しかけている。
そのうち「何!?何なの?」「どこか変なの?」「どうしたの?」と、母の声のトーンが次第に変わってきた。
さすがに気になり私もモソモソと起きて居間に出ていくと、母が必死に父の肩を揺すっている。

父は目を開けてはいるが、ボンヤリした顔つきで「あー。あー。」「ああ。」とだけ声を出している。
手を落ち着きなく動かし、ペットボトルのフタを開けたり閉めたりし、食べ終えたはっさくの皮でペットボトルのフタを包もうとしている。

ダメだこりゃ。おそらく脳だ。


私は血圧計を持ち、父の傍らに行った。
「お父さん、わかる?どうしたの?」という私の声かけにも全く反応を示さず、テーブルを指でなぞったり頭を擦ったりしながら「ああー。ああ、あー。」と繰り返す父。
血圧は2回ともエラー表示で測定できない。
手足は氷のように冷たく、脈拍も不整であった。
父の手を握り「お父さん!お父さん!!しっかりして!!」と涙声で呼びかけている母に「救急車を呼ぶからね」と伝え、私は119番通報する。

「火事ですか?救急ですか?」と聞かれたのに対し、よほど動揺していたのか「お父さんです!!」と答える私。

救急とやり取りしている間も父は「あー。ああ。」と言いながら壁にもたれたり、机に突っ伏したりしている。
手足は動かしているが、完全な意識障害だ。
母はパニックを起こしながらも「お父さん、大丈夫だよ。大丈夫だよ。」と懸命に声を掛けている。

余談だが、父の「あー」には様々なバリエーションがあった。
悲嘆の「あー↘」
納得の「ああ💡」
困惑の「あーー」
歓喜の「ああ✨」
私が1番すきだった(?)のは5回に1回ほど見られる、はにかみながらの「ああ(〃ノωノ)」である。
あれは非常に可愛らしかった。

救急隊との電話を終えた頃、父が「うん?…お?…ああ大丈夫だ。」「うんうん、わかった。」と意識を取り戻し始めた。
父に直前のことを尋ねるが何も覚えていないと言う。

北海道の五勝手屋羊羹とはっさくを食べていたことも「分からない」と言うではないか。
高い美味しい羊羹なのに勿体ない。

救急車で病院に行くことを告げると「誰が?」「なんで救急車なんて呼んだんだ!」「俺は絶対に行かないぞ」と父は怒りはじめた。
私はコロナの頃から溜まっていた怒りをここぞとばかりにぶつけた。

「意識を15分もなくしてたくせに偉そうな口を聞くな。このあと脳梗塞や脳出血を起こす可能性もあるから絶対に病院に行く。」

そう静かなトーンで告げると父は渋々納得した。

父の保険証や薬手帳を用意し、自分の身支度を簡単に済ませて父に目をやると「デパートへ買い物♡」くらいのレベルのお洒落をしていた。
粋な帽子をかぶり、ポール・スミスのマフラーまで巻いてやがる。
上着のポケットに手をつっこんでいる。

オイ💢ばかばか!空気読め!!

そのとき救急隊が慌ただしく6名で到着した。
「お父様どちらに?」と聞かれ、仕方なく「コレです。」とポール・スミスを指差す。
救急隊も若干驚きつつ「えっ?あっ!おお!お父さん。どうしちゃったかなあ?」とキメキメの父に優しく声をかける。
せっかく巻いたマフラーも外され、上着も脱がされ血圧計やら心電図やらを取り付けられる。

父はいちいちニヤニヤして私を見て頷いている。
母は居間の片隅で放心している。

受け入れ先がすんなり見つかり、自宅近くの病院へ搬送されることになった。
心身の状態を考え、母は留守番させることにして私が同行することにした。

父にとって生まれて初めて乗る救急車。
ストレッチャーで運ばれる父は明らかにワクワクしていた。
娘の私には分かる。彼は間違いなくはしゃいでいる。
車内では、足元に座る私に向かって「よお、写真撮らなくて良いの?インスタに『父さん救急車なう。』てやらないの?」などと話し、救急隊員から「お父さん、すごいねえ。」と呆れられていた。

病院に着くと「お嬢さんとは一旦ここでお別れです」と守衛さんに告げられ、父は手を振りながら自動ドアの中へと消えていった。
父は泣き笑いのような変な顔をしていた。

錦鯉の渡辺さんのような守衛さんに連れられ、私は待合室に通された。
渡辺さんに「寒い中おつかれさまでした。」と声をかけられた瞬間、私は思わず泣いてしまった。

怖かった。
母の声も私の声もまるで届かない父が。
何の感情もないような顔で奇妙な仕草を繰り返す父が。
もしあのまま意識が戻らなかったら、そう思うと怖くてたまらなかったのだ。

それもこれも1月のせいだ。
1月なんて大嫌いだ。
早くあっちへ行っておしまい!!

父の保険証や薬手帳が入っているポーチを握りしめて、私はなすすべもなく待合室に座っていた。
そんな私に看護師さん達はとても優しく、何度も声を掛けに来てくれた。
「お父さんの血圧170と高めですが、意識もしっかりしてますからね」
「お嬢さんがどこに居るのか気にされてましたよ」
「このあと検査を先にしますね」
あの看護師さん達は私なんかよりずっとずっと若い人達であったが、私なんかよりずっとずっと頼もしかった。

MRIを撮りに行く父が私の前を通る。
相変わらずヘラヘラニヤニヤしている。
さっきの意識消失が嘘のように思えてくる。
そう言えば、おかしな様子となった父を見た母が「◯◯さんの真似?」と言っていたが、よく考えると失礼な話だ。
もし似ているのだとしたら、◯◯さんの健康状態は大丈夫なのだろうか。

そんなことを考えていると、上下ブルーのスクラブを着て、前髪が異様に長い医師が目の前を通りすぎた。
茶色のゴムサンダルをペッタペッタいわせながら、如何にも「私にはやる気がありません」という歩き方である。
だらしのない歩き方をするヤツは嫌いだ。今年の1月を擬人化したら、きっとこんな感じだろう。
「この野郎!おまえだったのか!!」と飛びかかりそうな衝動を何とか抑える。

案の定、便所サンダルが当直医だった。
私の方を一切見ず小さいボソボソ声で何やら説明している。
長く重たい前髪で目は見えず、その代わりマスクがずり落ちているため鼻は丸だしである。

逆だよ!
目を出して鼻をナイナイしなさい!!

そう言いたい気持ちをグッと堪え「先生、恐れ入ります。お声がもう少し大きいと助かります。」と告げる。
あまり変わらない声量ではあったが今度は聞こえた。

CTもMRIも特に異常所見がない、と。

あとは心疾患やてんかんとの識別をしたほうが良いかも、と勧められた。
父と相談し、リウマチと胃がんのフォローをしてくれている都立墨東病院で精密検査をお願いすることにした。

私が帰宅する頃には日付けが変わっていた。
タクシーを待つ間、父と2人で「あー。ああ。」「ああー。」と「父のあーあーおじさん」の真似をして笑った。
そうでもして楽しいふりをしていないと発狂しそうだった。

その翌々日には墨東病院の予約が取れて、循環器と神経内科での検査が始まった。
今の時点でいくつかの検査は済んでいるが、これといって決め手となる診断名はついていない。
脈拍が48〜52と徐脈(脈が少ない)傾向で不整脈もあるが、今すぐペースメーカー植え込みというほどではない。
脳波も決め手には欠ける。

その間も軽度の意識障害はみられた。

どの先生がたも「これだけの意識障害のあとは、やっぱりでかめの何かが起きる可能性は高いので、意識障害のたびに必ず搬送してください。」と口にするため、母の緊張はピークとなっていた。
母は実の父をくも膜下出血で亡くし、実の母を急性心筋梗塞で亡くしているため、やはり前兆があり予防できるものならば何とかしたいと考えているのだろう。
しばらく入院で様子を診てもらえないのだろうか、と疲れきった母は呟いた。

しかし父は「あのねえ、いつどうなるか分かりませんよってえのはさ、生きてる以上みんな同じなんじゃないの?たまたま俺が今回馬鹿になっちゃったから騒ぎになっただけで。」と呑気に干芋をかじっている。

確かに「1週間から10日の間に脳梗塞や脳出血を起こす可能性が高い」などとは言うが「必ず全員そうなります。」とは言っていない。
10日目まで問題なく経過しても11日目にブチっ!!と行くかもしれない。

父は「先生がたの思いつく検査をやって、今の今必ず必要な処置や治療がないのであれば、俺はもうこのままで良いよ。もう充分すぎるほど楽しい人生を生きた。やりたいことやった。美味しいもの食べた。行きたいとこ行った。今死んでも全然いいんだから。」とニコニコしながら言った。

母も父の言葉に納得したようであった。
というのも、昨年胃がんの手術を受ける頃から母と私の間では「あれだけ元気な人だから、こうなると早いのかも。」「お別れが近づいてるのかもね。」と話していた。
そこへ持ってきて繰り返す意識障害である。
嫌でも「父との別れ」を考えてしまう。

父はまだいくつか検査を控えているが、不安がる様子も見せず「帰りに蕎麦屋に寄ろうかな」「鯛焼き買おうかな」といった調子である。

自分のコロナに始まり母のコロナ、やけっぱちなアントニオ母、さらに「あーあーおじさん」の父。
もう何が何やらさっぱり分からない。
年明けからずっと悪い夢でも見ているようだ。
目の前の父も母もとりあえず元気ではいるが、私はなんとなく地に足のつかないような毎日を送っている。

父も母も私より先に居なくなる(であろう)。
前回のnoteでそんなことを書いたが、それが「もしかするとそう遠い話ではないのかもしれない」と考えると怖い。
しかしそれを「イヤだイヤだ」と嘆きながら暗い顔をして過ごすことは勿体ない。

この先は、これまで以上に家族で楽しいことをやりたいなと思う。
楽しいこと、馬鹿馬鹿しいこと、くだらないことが好きな家族なので最後はめちゃくちゃくだらないことで笑いたい。

私は既に1つ提案している。
「家族写真を撮ること」だ。
兄が亡くなってからというもの、家族写真を撮らなくなってしまった。
私は成人式も結婚式もやっていないため(そもそも結婚してないのでね!!)、しっかりした家族での記念写真が七五三で終わっている。

お父さんは野球の審判服、お母さんはエプロン姿、私は白衣、お兄ちゃんは…まあ何か良い感じの写真。
それぞれの服装で写真を撮りたい。
一枚目は真剣な大人しいポーズで、二枚目はそれぞれの決めポーズで。
父はやはり「ストラ〜〜イク!!」あたりだろうか。

そして父は旅行に行きたいそうだ。
母も旅行が良いと言う。
父は世の中で最も「カニ」が好きなので、死ぬ前&意識が失くなる前に北海道にもう一度行きたいそうだ。
(私はカニアレルギーであるが)
暖かくなったら急いで連れて行ってやろう。

まずは予定されている検査を全て無事に終え、意識障害の原因がわかれば治療をし、原因が分からなければ「ま、いっか!」「電池切れだな!」「老衰だな!」と笑い飛ばし、3人で楽しくやろう。

そして父の意識がしっかりしているうちに、伝えたいことは全て伝えるようにしようと思う。
ところがこれが1番むずかしい。
なぜなら父と私は似た者同士で衝突することも多く、すぐに口喧嘩となる。
それはそれで親子ならではのコミュニケーションではあるのだが、そう遠くない未来に1人で長い旅に出ることになるであろう父に、伝えるべきことはきちんと言葉で伝えよう。 

そして父に関してだけではない。
誰かとの関係性には必ず期限がある。
「また今度で良いや。」
「そのうち会えたら話そう。」
「嫌われたくないからこれは言わないでおこう。」
本当はそんな悠長なことは言っていられないのだ。
明日もその人が元気で生きている保証などない。自分だってそうだ。
伝えることも、受け取ることも大事にしなければならないと改めて思う。

そんなことを考えさせてくれた2024年の1月は、そこまで嫌なヤツでもないのかもしれない。
でも嫌いだけど。
やっぱり好きにはなれないけど。

ということで、2024年の2月はどうか朗らかで明るいヤツだと良いな。

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