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村上春樹『UFOが釧路に降りる』批評③ー『ドライブ・マイ・カー』とともにー

1.はじめに

 さて、今回も、『UFOが釧路に降りる』を批評していくよ。『神様の子どもたちはみな踊る』の一作目に収録されているから、読んでみてね。

 パワポの再掲。亡霊論についても、整理しておいた方が良かっただろうか?いや、前回をきちんと読んでくれた人には必要ないかな?

 あ、後、ちょっと寄り道してもいいかな?

 実はさ、『UFOが釧路に降りる』はさ、『ドライブ・マイ・カー』とよく似ているんだよね。僕は『ドライブ・マイ・カー』の原作の方は読んでないけどさ。

https://dmc.bitters.co.jp/


 この、亡霊にしてもそうだし、話の作り全体がとてもよく似ているんだよね。家庭像、自動車、北海道、などなどと、共通点もやたらに多いしさ。

 そして、もっと言って、『ドライブ・マイ・カー』はさ、『UFOが釧路に降りる』を下敷きにした作品なんじゃないかって、睨んでるんだ。

 そして、僕が楽しみにしていることがある。

 最近、村上春樹が新作を出しただろう?六年ぶりの長編小説。『街とその不確かな壁』。あれも、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のイメージを繰り返してる。

 新聞の広告で初めて見た時は驚いたし、書店で、立ち読みして、すぐに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のリフレーズ部分があることにも驚いた。

 そう、同じモチーフを、もっと深く、全く新しく作り直す。これが、村上春樹作品にはあるみたいなんだよ。いやぁ、ワクワクしてきたね。

 それは、ともかく…。

 今回は、シマオさんが運転する自動車に乗って、移動するシーンについて丁寧に批評するよ。『ドライブ・マイ・カー』を使ってね。

 そう、利用するから、ちょっと寄り道したんだ。

 今回も、キーワードは<他者>。<他者>の類型を整理できるように、具体例を積み上げていきたいし、作品をもっと深堀できればと思う。

 そして、何と言っても、自動車。運転免許証はお持ちで?いや、僕は持っていなくてね。最近、いとこが運転免許証を取ろうとしてて…。ごめん、関係のない話して。

 では、さっそく、批評していこう。

2.村上春樹の自動車

 主人公の小村は釧路の空港で、シマオさんとケイコに出会い、空港内のカフェに腰を落ち着かせて、その後、腹ごしらえのために、自動車で場所を移動することに。

 シマオさんが自動車を運転する。小村は、シマオさんの運転そのものは悪くないが、自動車がボロく、乗り心地は最悪と評価する。

 さて、村上春樹あるあるなんだけど、作品の登場人物で、自動車へのこだわり、その体験へのこだわりが強い人物が登場しがちなんだよね。あるいは、作品のアイテムとして自動車を登場させるとか。

 それは、村上春樹自身が自動車にこだわりの強い人であるのと同時に、自動車が思想や作品の組み立てのためのキーアイテムに使われてるから。

 では、自動車にどんな意味が込められているのだろうか?

 『ドライブ・マイ・カー』は、もう作品のタイトルそのものが「私の車を運転する」とか、「私の車を運転して」とかであって、作品の真ん中に自動車が鎮座している。

 だから、村上春樹が自動車にこめた意味を知るにはうってつけだ。

 今回は、手続きの簡略化と、引用の目的のために、『ドライブ・マイ・カー』の内容にはあまり触れない。それでも、問題はないと判断する。

 主人公の家福悠介は自動車や運転にこだわりがある。

 例えば、自動車内での禁煙はもちろんのこと、年代物で、長く乗っているので、人が運転する時は、自動車のために、丁寧な運転を心がけるように注意を促す。

 家福が自動車の事故で怪我をして、妻の音の運転する別の車に乗るシーンがある。家福は音の運転も我慢ならない様子で、不満たらたらだ。

 少し脱線するけど、事故。これが、家福が妻と向き合うチャンスだったんだけどね。事故=<他者>で、特に、死が成分。

 前々回、小村の妻にとって大震災がどう<他者>として機能したか批評しただろう?あれが、事故として、夫婦を結び付けようとする作用があったのにね。

 その後、妻が脳梗塞で死ぬ。

 家福は妻に向き合わずに来たこと、そして、妻を永遠に失ったことを後悔する。妻が死んで、時間が経過し、家福は仕事の関係で、広島に。

 東京から広島に来た時、仕事の都合上、運営側から運転手の渡利みさき(以下、みさき)を付けられることになった時も、家福は乗り気ではなく、仕方なしといった様子で、テストまで行った。

 ちなみに、家福の仕事は、舞台演出家、舞台俳優である。

 この時、家福お気に入りの自動車だったが、みさきはテストに無事合格して、仕事が続く期間ずっと、みさきは家福の運転手をすることに。

 自動車には、妻の吹き込んだセリフのテープが妻の死後も流れ続けており、そして、自動車には妻の不倫相手である高槻耕史(以下、耕史)を乗せる場面も。

 また、みさきと禁煙のはずの車で煙草を吸ったり、みさきに運転させて、みさきの故郷、北海道まで行ったりと、自動車に無理をさせるようなことを受け入れるようになる。

 そうして、家福は自分を差し出す俳優という仕事に復帰した。

 自動車。これは、エゴであり、<自己>である。こう結論すると、すっきり理解することができるし、それは、<他者>としても機能できると、すっきり理解できる。

 家福の自動車は、家福そのものとも思える。年代物で、疲弊していて、丁寧に扱わないと壊れてしまう、そんな繊細で、面倒くさい自動車。

 自分で自動車を運転する時は自分の思い通りにできる。どんな車に乗るのかを自分で決められるし、どこに向かうのかを自分で決められるし、どう運転するのかも自分に委ねられている。

 だから、それは、エゴであり、<自己>なのだ。自動車はそれの拡張、それの肥大であり、彼自身の延長として、捉えることもできる。

 しかし、他人が運転する時はどうだろう?

 自動車は自分のものではなく、その人のものかもしれないし、どこに向かうのか、実の所、その人次第で、運転も、その人の技量や癖が反映されるだろう。

 つまり、そういう意味で、自分の思い通りにならない不快さがあり、つまり、そういう意味で、<他者>としても機能すると判断できる。

 さらに、他人が自分の車を運転する場合、どうだろう?

 <自己>の主導権を他人に委ねるということを意味する。運転の技量や癖によって、乗り心地の悪さを感じたり、自動車が傷ついてしまう可能性もあったり、不快さとリスクを感じざるを得ないだろう。

 だから、家福は運転手を宛がわれるのを嫌がったし、みさきの運転をテストするようなことをしたのだ。みさきは無事合格したが…。

 さて、あまり深くは立ち入らないが、家福の妻、音が吹き込んだ舞台のセリフのテープが、妻の死後も自動車で再生され続けていたことについて。

 これは、前回扱った亡霊論に関わる問題だ。

 先ほども指摘した通り、自動車は<自己>だ。だから、自動車の中は家福の内面世界であり、後ほど指摘する通り、人を乗せることの意味は、それによって、特定されるわけだが…。

 その内面世界に、妻の声が響き続けている。しかも、テープだから、同じことの繰り返しであり、テープという、かつてのメディアが使われているのもポイントだ。

 広島に向かう時の家福は、妻とは死別し、それから、時が流れてしまっている。だが、妻が度々、内面世界に侵入して、影響を及ぼしている。

 しかも、それは、終わりのない問答であり、繰り返しの問答だ。亡霊のある所、凍れる反復があるのだ。それは、一部が死んでいるのと同じだ。

 少し、煙草の話を掘り下げよう。煙草を吸われると、自動車に匂いが付くから、嫌だ。それは、別に、多くの人が感じていることだろう。

 だが、少し深堀すれば、他人が乗るだけで、匂いというのは少なからずついてしまうものだ。誰かが自分の世界に入り込むことの不快が問題であり、誰かが自分の世界に痕跡を残すのが許せないのだ。

 しかし、家福は、みさきを乗せ(しかも、運転手として)、耕史を乗せ、あまつさえ、みさきとともに煙草を吸い、みさきに長距離運転させて、みさきの故郷、北海道にまで向かっている。

 これは、誰かとともに生きることの受け入れだ。

 『ドライブ・マイ・カー』は、家福が亡霊から解き放たれて、他者との共在を選ぶ話なのだ。他者と共に生きていく。自分を他人に差し出す。寄り添い、与え合い、支え合う。

 さて、『UFOが釧路に降りる』に戻るよ。もう、この作品のこと忘れてたでしょ?僕もほとんど忘れかけてたよ。ごめん、ごめん。

 シマオさんの運転する自動車に乗る。これは、小村にとって、他人の運転する他人の車に乗ることを意味したんだった。運転は悪くなかったけど、いかんせん、車がボロくて、乗り心地は最悪というね。

 さて、『UFOが釧路に降りる』と『ドライブ・マイ・カー』を比較してみようと思う?そうそう。今回は、実は、それがポイントなんだ。

 『ドライブ・マイ・カー』は『UFOが釧路に降りる』で描かれなかった類型のオンパレードなのね。以下、表を乗せるから、ご覧あれ。

 パターン8が『UFOが釧路に降りる』の小村の経験した自動車のパターン。シマオさんが運転し、助手席にケイコ、小村は後部座席に座っていたんだった。

 で、家福は一人でパターン1、妻とパターン2、パターン7、みさきとパターン5、みさきと耕史とでパターン6を体験している。

 自動車の位置付けが確定し、この自動車というアイテムを縦横無尽に使いこなせるようになった村上春樹がいる。これが、見出せる成熟である。

 <自己>と<他者>の関係を、自動車というアイテムを使って、表現していく。しかも、その関わりと変化を表す舞台にもしている。村上春樹の作家としての力量は、自動車だけでも過剰なほどだ。

 しかしね、ミスリードしちゃいかんのだよ。

 単純に、アイテムとしての自動車がここまで進化したかなんて考えているうちに、『UFOは釧路に降りる』の当該シーンの深堀を忘れてしまう。

 少し話の先取りになるけど、勘弁ね。

 空港内のカフェに腰を落ち着かせ、ケイコが電話で席を立った時、シマオさんがケイコとの関係を「仲間」と言っていたんだけど、これが、大事だったりするんだ。

 シマオさんの運転する自動車。これが、ボロくて、ひどいというのは、<自己>が壊れているというのではない。<自己>に<他者>を許しているということだと考える。

 そう、ここが、家福とは違う。

 家福の場合、それは、<自己>の傷つきであり、疲弊であった。そして、<他者>を許さない繊細であり、真逆の意味が与えられていた。そう、これが、面白い所だ。意味が反転されている。

 シマオさんは、後のシーンで、「何が起こるか、そんなの誰にもわからないのよ」とか、「素直に人生を楽しむことよ」とか、口にしている。

 これは、「<世界>はそもそもデタラメ」(宮台真司)なので、「素直に人生を楽しむ」のが良いということを言い表している。

 シマオさんとケイコはそんなデタラメな<世界>での仲間なのだ。そして、彼女たちは笑う。シマオさんの熊の話で。これは、すごいことだ。

 結局、人間なんて、青姦しながら、熊が来ない様に、ちりんちりんと鈴を鳴らしている、そんな滑稽な存在でしかない。そんな諦めがあり、そして、「素直に人生を楽しむ」ということが出てくる。

 小村にとっての自動車の体験は、一体、何だったのか?

 あのシーンは、小村がまだ<自己>に<他者>を許容できていないことの表現であり、そして、異なる<自己>のあり方との出会いを象徴しているのだと思う。

 そして、小村はケイコとシマオさんとの関わりで、<自己>に<他者>が侵入してくるという体験をする。それは、亡霊という形でなくて。

 それは、<他者>への目が開かれたということである。

 でも、やっぱり『ドライブ・マイ・カー』が進歩しているように思う所は、妻と小村の<他者>を巡る帰結を合わせた所にあるだろう。

 みさきは地震で母を失くしている。半ば自分のエゴで。二重人格の母の純粋さを守るために、家の下敷きになった母を見捨てたのだった。でも、助けようとして、助かったかどうかは、実の所、分からないらしいが。

 家福は家福で、自分は「十分に傷つかなかった」ことを吐露する。例えば、妻の不倫を見て見ぬフリをしたことに、だ。<他者>との出会いは傷つきでもあり、それを、引き受けることでもあるから。

 家福とみさきは北海道で抱き合っている。

 二人とも亡霊を背負っている点や、みさきを、疎外論的社会の疎外されている側に置いた点、より自覚的に問題が整理されている点。いや、もう何?何も言えねぇ。

 そう、小村の妻は疎外論的社会では、疎外している側の裕福な家で育ってきたのだし、結局、その社会に戻るという形で、<他者>との出会いを決着させていたわけでね。

 でも、みさきには帰るべき場所がないんだ。

 それに、小村が<他者>に目覚めただけで終わったのに対して、家福は<他者>と共に生きる次元まで到達している。この違いは大きい。スタート地点と、それから、随分と離れた地点とに別れている。

 まぁ、自動車の話に戻ると、この違いは、軸足をどこに置くかの違いでもあってね。自動車の<他者>をどこに置くかということだ。

 つまり、軸足を、車本体の状態(<自己>のあり方、ひいては、<他者>への感性)に置くのか、それとも、搭乗者(他人そのもの)に置くのか。

 つまり、<世界>か、他人と亡霊か、どちらに重きを置くのか、と。

 『UFOが釧路に降りる』が<世界>に軸足を置いて、社会とか、人間存在とか、少し抽象度の高いものを、浮き上がらせている印象を受ける。

 しかし、『ドライブ・マイ・カー』はどこまでも人間ドラマ。社会の中での話。他人とあることとか、亡霊との付き合いとか、それが、テーマになっていたのだった。

 そうだ。これで、分かった通り、『UFOが釧路に降りる』と『ドライブ・マイ・カー』は対になっている。これは、明らかに、作為的に、だ。

 『UFOが釧路に降りる』は<世界>に軸足を置いている。それを、次回からは、もっと苛烈に、突き詰めていけたらと思う。

3.終わりに

 僕はにわかハルキストだ。

 いや、村上春樹の信奉しているということではない。村上作品だから、全部読むとか、村上春樹の文章や発信は、全て追いかけるとか、そういうのではない。

 僕がハルキストであると自覚する時、それは、村上春樹が主題としているテーマが僕にとっていつも切実だということを意味している。

 きっと、そう感じる人が世界には僕の他にもいて、だから、村上作品は読まれ、ハルキ・ムラカミは、世界的な文学者なのだろう。

 しかし、僕も含めて、村上作品を正確に読み解くことのできない人間の方が多いのではないだろうか?僕もしばしば眩暈がするほど、内容の無理解に苦しんだりする。

 マァ、現実問題として、村上春樹の本を興味深く、楽しみながら読むには、知的教養がないと難しい。一にも、二にも、勉強なのさ。

 今回は、自動車に注目して、『UFOが釧路に降りる』と『ドライブ・マイ・カー』を比較してきた。そして、軸足の違い、二つの作品が対になっていることを突き止めた。

 いやぁ、とんでもない所まできちまったよ、おい。マァ、次回も楽しみにしておいてくれや。アデュー。

 

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