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村上春樹『UFOが釧路に降りる』批評②ー小村の妻が「死んだ」とは?ー

1.はじめに

 とにかく村上春樹を読みなよ。読んでよ。てか、読め。読まないと、許さないんだからね。いや、僕は、別に、好きってわけじゃないけどさ。

 この本、前回も紹介したけど、村上春樹の短編集でね、それも、阪神淡路大震災が全六話全てに登場する震災六部作。今、読むべき本だよ。

 これも、前回、指摘したことだけど、新海誠が『すずめの戸締り』作った時にモチーフにした作品『かえるくん、東京を救う』も掲載されてるし。

 で、前回から、短編集の最初の話『UFOが釧路に降りる』の批評をやっているわけだ。亡霊論をやりたくてね。まぁ、今回、立ち入ることになるよ。

 前回の続きね。まずは、前回、整理した怪しげなパワポを再掲するよ。こんな理論を持ち込まなかったら、もっと分かりやすいのかもなぁ。

 そう、『UFOが釧路に降りる』という短編には、社会論、実存の問題、他者論が潜んでいたんだった。村上春樹、彼は恐るべき才能である。

 今回は、小村の妻が「死んだ」がテーマ。僕が考えたかった亡霊論に関係してくるから、僕もやる気が入ってるよ。読者には関係ないけど。

 では、早速、批評開始。

2.小村の妻が「死んだ」とは?

 小村は突然実家の山形に帰省した妻との離婚に応じる。小村は妻のこともあって、一週間の有給休暇を取る。

 時は二月で、忙しくないらしいとはいえ、事情を察して、それを許してくれる上司。職場の人間関係に恵まれるって、こういうことだよね。

 その折、自分とは馬が合う同僚の佐々木が、小村が一週間の有給休暇を取ると知って、とある不思議な頼みごとをしてくる。

 何でも、ある荷物を、北海道の釧路にいる妹に届けてほしいというのだ。

 自分には行く余裕がないし、何となく気分の問題で、誰か見知った人の手で運んで欲しいからだとか。でも、特別、配慮が必要なわけでもない代物だという。

 それで、飛行機のチケット代も、向こうの宿泊も手配してくれるというので、小村は予定もないし、その話に乗ることにしたのだった。

 後日、小村は佐々木から小さな荷物を受け取り、飛行機で釧路まで向かう。飛行機の中でも、小村は妻のことが頭から離れない。

 釧路に到着すると、佐々木の妹のケイコと、シマオさんという、本人曰く、ケイコとは仲間の女の子が空港で待っていた。

 空港内のカフェで腰を落ち着かせるのだが、ケイコが「奥さんが最近亡くなられたと、兄に聞いたんですが」と切り出した。

 当然、小村はそれを否定し、離婚しただけと訂正するが、「いや、どうでもいいです。同じようなものだ」と、後から半ば賛同を示している。

 「同じようなもの」?どうしてそんなことを?

 ケイコに配慮して、「同じようなもの」と口にしたのは確かだが、その意味は深堀する必要がありそうだ。どういう意味なのだろうか?

 小村にとって、妻が自分に「永久」の別れを告げて、実家に帰り、離婚を申し出てきたことは、突然で、理由の分からないことであった。

 飛行機の中でも、新聞の記事(阪神淡路大震災の記事)を見たり、寝たりしてみるが、どうしても妻のことが頭から離れない様子だった。

 そして、妻が大地震のニュースをあれだけ熱心に追っていた理由を問い、妻がそれに何を見出していたのかを問うていた。

 それが、妻の行動の理由を辿る手がかりだったからだ。

 この際、妻の行動、そして、妻自身が、小村にとって、<他者>として現れているのが分かる。不可思議で、理解の及ばないものという意味で。

 妻が「死んだ」というのは、「永久」の別れを告げられたという意味で、もう会うことも、話すこともないという意味で、それは、正しい。

 しかし、それだけの意味ではないと考える。

 例えば、妻という役割や機能を果たす記号がなくなった。それが、自分の身近な所からどこかへ消え、戻らなくなったという解釈もできる。

 少し角度を変えた言い方だ。この際、記号からはみ出す所の中身なるものは、記号に覆い尽くされたる所の中身なるものは、関係がない。

 小村は物象化された社会を生きている「個人」である。なら、「生身」の彼女との同居、接触、会話が大事だという方向に行くか?

 そんなけったいな方向にはいきそうもない。

 だって、シマオさんに「きっと奥さんのことが好きだったんですね?」と問われた時、小村は意識的にか、無意識的にか答えを避けているし。

 この時、妻と奥さんが使い分けられているのも、ポイントか?

 そして、亡霊論を引き合いに出すと面白い。ようやく本番。上手く批評に利用できるかは自信がないが、やるしかないから、やる。

 亡霊。これについては、以下に叙述するようなイメージがぴったりと当てはまるような気がする。これは、中国のとある城壁に囲まれた街の話。

 その街の近くは防衛のために度々戦場となり、人々の白骨化した死体が数多く埋まっている。日中に、門から街を飛び出した犬がその骨を取って帰ってくるくらいだ。

 夜になると、その戦場を漂う亡霊が目を覚まし、門から街に入って、人々の寝込みを襲い、人々は悪夢にうなされることとなる。

 朝が近づくと、亡霊は街の中から戦場跡に戻る。街は平穏を取り戻し、新しい一日を迎える。亡霊たちの気配の残りを感じつつ、朝起きた街の人たちは日中になると、それを、瞬く間に忘れる。

 亡霊とは<他者>に憑かれることであり、これは、どこまでも内面での出来事で、<他者>であった出来事そのものは、過ぎ去っている。

 この中国の話では、戦も、兵士の死も、街にとって外側、そして、現在からして過去のことであり、過ぎ去り、普段はそれと断絶している。

 しかし、犬が走り出して、骨を持って帰ってくることから、昼(意識)の断絶がある時でも、断絶を自ら超え出てしまうことがある。

 また、夜(無意識)、これは、昼(意識)の断絶を超えてくる。否応なく意識に侵入してくる。それは、うなされる悪夢をもたらす。

 悪夢?

 この場合、死が<他者>の成分になっているが、死はそれを受けた人(兵士)や、それをもたらした出来事(戦)と不可分である。

 つまり、亡霊を考える時、<他者>の成分が何か、そして、それは、何を関係していて、どのような出来事であったかを考える必要がある。

 小村の場合を考えてみよう。小村にとっての<他者>は妻の行動であり、妻自身である。亡霊に当てはまるかチェックしていこうと思う。

 妻の行動や妻自身は小村にとって過ぎ去ったものだ。また、妻は山形に帰省したので、小村と妻とは空間的も隔絶されている。

 また、「自分自身からは逃れられない」「影と同じ」と、小村自身がシマオさんに同調しているように、妻の話はどこまでも内面の話だ。

 そして、意識の壁が破られて、無意識から妻のことを頭に思い浮かべてしまう。それは、否応なく、自分の意志とは関係なしに、だ。

 ただ、飛行機内で妻のことが頭から離れなかったことに注意だ。

 新聞を読むという行為は、犬が骨を拾いに行く行為に一致し、短い眠りに入ったりで、夜(無意識)が忍び込んでくるのを暗示していた。

 それに、飛行機という土地から隔離されて、空中を飛び、移動していることも、夜(無意識)が昼(意識)を超える暗示だったのかもしれない。

 <他者>の成分は不可思議。理解が及ばないということ。妻という人に関係していて、突然の「永久」の別れという出来事が、緊密に関係している。

 そうだ。妻が「死んだ」というのは、妻が亡霊になったということを表しているのだ。亡霊になって、小村に憑いているのだと、ね。

 もちろん、小村自身が妻のことについて、亡霊論的な解釈ができていたとは考えられないが、しかし、妻が「死んだ」は直感的に、あるいは、ケイコへの配慮から出た言葉とはいえ、本質を突いている。

3.終わりに

 今回は、妻が「死んだ」の意味を解読してきた。それは、小村にとって妻が亡霊になったことを意味していた。そう、小村は妻に憑かれたのだ。

 亡霊が憑くと、人は亡霊からの度々の侵入を許し、悪夢にうなされることになる。悪夢、<他者>に憑かれて、振り回されるのだ。

 小村の場合、妻に去られた衝撃や痛みが、その不可解さとともに、無意識の中に、そのまま格納されて、度々、それに、襲われることを意味する。

 これは、トラウマとか、PTSDとか、そういう類いの話とも関係している。
 
 冷凍されて、溶けないような、それでいて、一度、意識に昇ってくると、燃え盛るような体験。それが、トラウマ体験なるものではなかろうか。

 亡霊は、それの、擬人化とも捉えられるし、それが、人の形をとって、現れるような体験について、特別に扱っているようにも思える。

 『UFOが釧路に降りる』は「お祓い」の話としても読めるだろう。あるいは、「喪服」の話とも。いずれにしても亡霊論が導入されている。

 今回は以上。方針として、細切れに、短く、テーマを区切って、丁寧に論じていくことにしたから、どうかこれからもよろしくね。アデュー。

 


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