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地理Bな人々(14) クルマ②       トンボロ/天職 

 久留間は月に1~2度土曜日の夜にやってきた。
 僕はマークⅡの後部座席で眠りにつき,見知らぬ土地で日曜の朝を迎えるというルーティンを繰り返すことになった。この深夜ツアーのおかげで,僕は受験勉強で習ったいくつかの地理の現場を訪れることができた。   
 行き先はほぼ首都圏※1だったが,時には静岡や長野まで出かけることもあった。1人で夜通し運転をし,明け方わずかに仮眠を取るだけで翌日曜日も眠い顔一つ見せることのない久留間の体力には毎回感心した。ハンドルを握るとむしろ疲れが取れるくらいだ,と久留間は言った。
 
 この日は伊豆の堂ヶ島※2にトンボロ現象を見に行った。
 トンボロ(陸繋砂州)※3とは,沖合に浮かぶ島と陸地が砂州で繋がっている地形のことをいう。朝方僕らが到着した時は潮が満ちている時間帯で,200mほど沖合にある三四郎島は完全に半島からは切り離されていた。コーヒーを飲みながら待っていると,海水面の低下とともに島との間に砂礫の橋が架かり,その幅が徐々に広くなり歩いて島へ渡ることができた。
 
 当初,地理など全く関心の無かった久留間だったが,行く先々で僕の解説を聞いているうちに少しは好奇心が出てきたようで,「伊豆には何があるんだ?」と聞いてきた。
 僕は,この地域が日本で唯一の特別な場所※4であるという話を地図帳(常にリュックに入れてある)を使って説明した。さらに,ユネスコ世界ジオパーク※5のうち,日本国内にある10ヶ所※6のうちの1つであり,火山性のさまざまな地形がこの周辺で観察できることも付け加えた。
「そんなにたくさん見所があるなら一日じゃ回れないな。」
「うん。また来よう。」
「なあ,水野も早く免許取れよ。交代で運転すればもっと遠くへ行けるぜ。」
 確かにそうだ。けれど,もしそうなったら,ドライブは月曜や火曜まで続いてしまうんじゃなかろうか?
「毎回運転を任せっきりで申し訳ないけれど,免許の必要性を感じないんだ。」と僕は答えた。
 
 事実,東京23区で生活している限りにおいては,自動車ナシでも生活に特に不便はない。クルマを買ったところで,駐車場代は高いし,すぐに渋滞する。何より東京メトロでたいていの場所に定時に安価に移動できる。週に一度乗るか乗らないかの自動車を保管するために年間何十万円もの費用を掛けるのもばかばかしい。実際,人口100人あたりの自動車保有台数は東京都は47都道府県中最下位※7だ。

「別にクルマを買えとは言わん。でも免許があればいつか役に立つ。」と久留間は言う。 「そんなものかねェ。」と素っ気ない返答をすると,
「水野が長時間続けても苦にならないものって何かある?」と聞かれた。  はて。  
 この言い回し,どこかで聞いたことがある。確か,中島先生の講義だ。

   ○       ○     ○    

 その日,中島先生は「地理学Ⅰ」の授業の中で最上徳内※8について語っていた。
 人生の大半を北海道・樺太の調査に費やした江戸時代の偉人の生涯について興味深いエピソードを紹介してから, 「徳内にとっては歩いて探検することが天職だったのかもしれないね。日本地図を作った伊能忠敬※9も凄いけど,自分は徳内の方が好きなんだよね。」と言い,いつものようにそこから脱線して,「天職」の条件を次のように定義した。

①   何時間し続けても全く苦にならないこと。
②   自分以外の誰かを幸福にできること。

「この2つを満たすものが見つかれば,それは天職になります。でも,それを見つけるまでにだいぶ遠回りをする人が多いのが現状です。生涯見つからなかった,という人もおそらくたくさんいる。みんなも将来そのことで悶々とする人も出てくるかもしれない。でもね,自分の過ごしてきた時間を振り返ると,少なくとも①に関しては誰でも一つくらいはあるはずなんだ。」
 
 そう言われたものの,時を忘れるほど夢中になったことなど果たして過去にあっただろうか,という気がした。
 強いて挙げるならば「地図をぼんやり眺めること」だった。
 僕は小学生のころから地図を見るのが好きだった。地図なら何時間でも眺めることができた。面白い地名だな,とか,何て読むんだろう,というところから始まって,思うままに国道を通り,電車に乗って,あちこち勝手に脳内旅行する感覚が大好きだった。知識がついてくると,ここは冬はかなり寒いんだろうな,とかこんな所になぜ名所旧跡の記号※10があるんだろう,とかいろいろな情報が頭の中を駆け巡るのが楽しかった。
 その点から言えば条件①を満たしているといえるだろう。
 問題は条件②だ。
 僕が地図をぼんやり眺めていることで見知らぬ誰かが幸福になるという可能性はほぼゼロだった。今のところ,僕の好きなことは残念ながら天職とは呼べなかった。
 久留間にその話をすると,「こう言っちゃあナンだけど,それって年寄りになってからでも十分楽しめるよな。」と笑って先を歩いた。その後姿は,つまんねえヤツだなあ,と言っているようにも見えた。
 
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※1 首都圏
関東地方(1都6県)に山梨県を加えた地域。日本の総面積の8.1%の地域に人口の32.9%が集中している。
 
※2 堂ヶ島
静岡県西伊豆町の景勝地。伊豆半島の西岸に位置し,リアス海岸や波の侵食でできたいくつかの島々で構成される景観から「伊豆の松島」とも呼ばれる。
 
※3 トンボロ(陸繋砂州)
トンボロとはラテン語で「土手」を意味する。沿岸流によって運ばれた砂礫が,沖合の島と陸地との間に堆積し島と陸地が繋がった地形のこと。堂ヶ島のように時間帯によって陸地化したり海水に覆われたりする場合と,恒常的に繋がっている場合がある。後者の場合トンボロに市街地が広がる例が見られる。最も有名なのは函館で,「100万㌦の夜景」はほぼこのトンボロの部分に広がっている。その他,本州最南端の和歌山県潮岬(しおのみさき)や,神奈川県の江ノ島,フランスのモンサンミッシェルなどもトンボロである。
 
※4 日本で唯一の特別な場所
日本列島は,大きく分けて東北日本は北アメリカプレートの上にあり,西南日本はユーラシアプレートの上に乗っている(地P88②)。しかし,伊豆半島だけは海洋プレートであるフィリピン海プレートの上にある。もともと南方にあった伊豆半島はプレートの移動により,約60万年前に日本列島にドッキングしたのである。静岡県東部の富士山周辺は3つのプレートの会合部に相当する。
 
※5 ユネスコ世界ジオパーク
UNESCO(国連教育科学文化機関)の一事業で,国際的に価値のある地質遺産の保護と,地域文化への理解と自然と人間の共生,持続可能な開発を実現することを目的とする。いわば「世界遺産の地学バージョン」である。世界全体で2023年現在195カ所が登録されている。 
 
※6 日本国内にある10ヶ所
洞爺湖有珠山(北海道)・糸魚川(新潟県)・山陰海岸(鳥取、兵庫、京都)・室戸(高知県)・島原半島(長崎県)・隠岐(島根県)・阿蘇(熊本県)・アポイ岳(北海道)・伊豆半島(静岡県)・白山手取川(石川県)
 
※7 東京都は47都道府県中最下位 
人口100人当たりの自動車保有台数(2022年)の全国平均は48.9台。最も多いのは群馬県で71.2台,次いで茨城県,栃木県,と北関東3県が上位。東京都は47位で22.0台である。46位は大阪府(31.4台)。かつて自動車が普及し始めた頃は所得水準の高い大都市圏の方が普及率は高かったが,安価な乗用車と原油価格の低下を背景に自家用車が普及すると,公共交通機関(鉄道・バス)の普及が遅れた地方では,ショッピングセンターやロードサイドショップなど「自動車で来店する」ことを前提とした街作りが急速に進んだ。その結果大都市圏の郊外や地方では「自動車が無いと不便きわまりない」という生活空間が一気に拡大したのである。 
 
※8 最上徳内(1755-1836)
江戸時代後期に活躍した,北方探検家。山形県村山市出身。貧農に生まれ独学で学問を修め,初めは下人扱いで江戸幕府の北方探査に参加。のち8回にわたる蝦夷地調査で,択捉島や樺太を含む北方地域の専門家として幕臣となる。アイヌ語にも通じ,初のアイヌ語辞典『蝦夷方言藻汐草』の編纂にもかかわった。
 
※9 伊能忠敬(1745-1818)
江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。1800~1816年に日本全国を測量し,『大日本沿海輿地全図』を完成させる。現在の日本地図と比べてもほぼ遜色ない正確な地図を初めて完成させた人物として有名。
千葉県九十九里町出身。 
 
※10 名所旧跡の記号   
国土地理院の地図において,「」の記号で表される。正式には「史跡・名勝・天然記念物」という。茶畑の記号(∴)と似ているので注意。
 
 

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