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【連載小説】Monument 第七章#3

眞琴

 眼下には、地平の果てまで一面の闇。

 光も、ない。
 音も、ない。
 風も、ない。

 匂いも――走りに走り続けたせいで、焼き付いた肺が吐き出すかすかな血の香りを除けば――なにもない。

 汗を吸った衣類は肌にまとわり、手の甲で拭った口元には、薄っすらと塩の味がした。


 街は、闇という名の海の底に深く沈んで果てしなく広がり、そのまま空へ――吸い込まれてしまいそうなほど澄み渡った星空へと連なっている。
 天空は、くっきりと銀河に両断されていた。

 首筋に冷たく流れた汗が、悪寒となって背骨を伝い、全身を震わす。
 それをもう、自分の意志では抑えることができない。
 崩れそうになるひざに両手をあてがい、中腰になって上体を支えた。


「大規模な停電――か、なにかだろう」
 息をつくように、そう呟いた毬野が声を励ました。
「好都合じゃないか。これなら警備はてんてこ舞いだ。僕らにかまってる暇なんかない。行こう!」
「う、うんっ」

 大階段の左端。
 壁際に片手を着きながら、右手を伸ばして毬野の背中――バックパックのハーネスを掴んだ。
 もう、こうでもしていないと、わたしは……。
「ごめん、毬野。もう少しゆっくり」
 闇の底へと降りていく。その恐怖にひざも足首もすっかり萎えて、ちっとも力が入らない。


 最初の踊り場は、それでも何とか越えられた。

 花時計を過ぎて、大階段の中ほど。
 最も広い踊り場へと、たどり着くまで、あと数段――というところで足がもつれた。

 倒れる――と、覚悟を決めて固めた身体が、すっぽり毬野に包まれる。
 そのまま、踊り場の上に降ろされた。
 毬野の、腕の中。
 心ならずも、その懐に崩折くずおれる。

「眞琴。ケガは?」
「平気。大丈夫」

 顔が火照った。
 気遣う毬野の手の内から、無理やり身体を引きはがす。
 着いた左足に、鋭い痛みが走った。
 途端、バランスを失い、弾みで、そのまま左へ――プールへと続く通路の壁に、しこたま背中を打ち付けた。
 ズルズルとその場へ、へたり込む。
 ざらざらした壁面が背中を擦った。

「麦っ!」
「任せて――ほら、眞琴っちゃん、立てそう?」
「うん……痛っ」

 立ち上がろうと力を込めた左足首から、再びビリっと痛みが走り、通路の隅に尻餅をつく。
「眞琴っちゃん!! ――毬ちゃん。ここならしばらく身を隠せそうだ。ちょこっと休んで様子を見よう」
「ダメだよ啓太郎。先を急がなきゃ!」
「なら、なおのこと足の状態を確かめないと。ね?」

 痛みをこらえて長靴を脱ぎ、ズキズキと脈打つ足に手を当てる。足首は熱を持っていた。

 こんなことになるなんて……。
 わたしたちの持ち物の中に、応急手当のできる医薬品の類は何もない。

 啓太郎が、わたしの前に跪き、バックパックから取り出した真っ白なタオルを口に咥えて二つに裂いた。

「ごめん。俺に出来るのはここまで。眞琴っちゃんなら結べるんでしょう?」
「ありがと。啓太郎」
 差し出されたタオルの切れ端。その中ほどを土踏まずにあて、足首の後と前で交差する。
 応急処置には事足りそうだ。


「眞琴、大丈夫か?」
「うん。ほら」
 足首を固定し終えて、立ち上がる。
「歩けそう? 眞琴っちゃん」
「もちろん」
 そう言い返して歩いてみせる。
 身体が自然、左足をかばった。

「眞琴、無理せず足を休めてろ――麦、ここにいてくれ。僕はこの先の様子を見てくる」
 そう言い置いて背を向けた毬野が、ほんの数歩と進まぬうちに立ち止まった。

「ウソ――だろ?!」

 この先、通路は真っ直ぐプール跡地に繋がっている。
 それは一昨日、確かめた。

 なのに――。

 毬野が持ち上げたランタンに浮かんだのは、鈍く輝く南京錠。
 それは両開きの鉄柵をしっかりと結んで、その真ん真ん中に鎮座していた。


 待て――待て、待て。

 一昨日、眞琴と来た時に、こんなものあったか?
 いや、ない。こんなもの、絶対に無かったはずだ。
 
 柵を掴んで、試しに揺する。
 ガシャガシャと音を立てて柵は鳴り、重たい南京錠がぶつかって、キンッと鋭く音を立てた。


 どういうことだ?

 柵に塗られたペンキは、モザイク状に割れていた。
 その感触は、柵のパイプを握りしめた、僕の手のひらにだって伝わってくる。

 昨日今日、作られたものでないことだけは確かだ。

 だとしたら、見落としていた――というのか。
 一昨日は開いていた鉄柵が――何らかの事情で――今日までの間に閉じられた……と?

 ほんとうに、それだけ、のことなのか。

 柵越しに、奥の様子をうかがってみる。
 今のところ、件の光は見当たらない。

 この柵を乗り越えてしまえば――。

 ランタンを大きく傾けて、行く手を――柵の隙間から向こう側を照らした。


「そんな……バカな……」

 柵から、およそ十メートルほど奥。
 そこには建物が――事務室やら更衣室やらが入っていた建物が、道を塞いで建っていた。
 そんなもの、断じて無かった。あったはずがない。一昨日までは。


「毬ちゃん! こっち」
 切迫した麦の呼び声に、二人のもとへと馳せ戻る。

 背中を壁に預けて座ったまま、気遣わしげに麦を見上げる眞琴。
 その隣で、麦は花時計のある踊り場へと折れる壁の角にピタリと身を寄せ、片手で僕を制した。

 姿勢を低くして、麦の足元までにじり寄る。

「――?!」

 大階段の天辺に、無数の光が瞬いていた。
 それは、階段を滴るように降りて来る。

 大階段の向かい側、斜面に広がる雑木林の中にも。
 例の光は、今にも溢れかえろうと迫っていた。


 いったい何が起こっている?
 僕たちは、どう、すればいい?

 この先もう、逃れる道なぞ、どこにもない。
 大階段を下りたところで、正門は厳重に封じられている。

 たとえ柵を乗り越えられたとしても、その先にあるのは建物だ。
 その背後にあるものは、ほんとうに残土置き場、なのだろうか。

 前髪に絡めた指が震えて、額に浮かんだ脂汗に濡れた。
 僕らは、いったいどこへ迷い込んでしまったんだ――。


「ねえ、なにこれ。 なんの音?」

 音?

 眞琴の声に耳を澄ませた。
 ヴゥーンと低く、機械の唸る低い音。

 啓太郎は通路の反対側の壁に移って大階段の下を、僕は立ち上がって、さっきまで麦のいた通路の角から両耳に手をあてがって、音の来る方向を探った。
 が、どこから発しているものか、音の源はわからない。


 そうしている間にも、光の粒はひたひたと、僕らに向かって押し寄せてくる。
 それは、とうとう花時計の上部にまで達した。

 花壇の中に瞬く光。
 その上を、細長い影が一本、ゆっくりと横切っていく。

 見間違い――ではない。
 瞳を凝らす。
 時計が――花時計の秒針が、花壇の上を滑っていた。

 と、すると、この音は花時計の……。
 いや。でも、どうして。今なぜ時計が動き出す?
 もう、ずっと停まっていたはずなのに。


「毬ちゃん、眞琴っちゃん。なんだろう、あれ?」
 大階段の下方を見張っていた麦が、通路の端から身を乗り出すと、真っ直ぐに腕を伸ばして指さした。

 真っ暗闇に沈んだ地平。
 その彼方に輝く、小さな光を。

 星……ではない。
 僕らに迫る、あの淡い光ともまた違う。
 それは、闇をかき分け、緩やかにうねりながら、やってくる。
 次第に、その輝きを増しながら。
 僕らの居る、この大階段の麓へと向かって。

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