見出し画像

【連載小説】Monument 第七章#2

眞琴

 夜風に頬を撫でられて、わたしは我に返った。

 ちょっぴり腫れぼったくなったまぶたを開く。
 涙が渇くと、満天の星空は変わることなく頭上にあった。

 目の前のクチナシの樹に向き直る。
 合わせた両手に、つぼみが頷き返した。

 ひざについた土をはたいて、辺りを見回す。
 道具はすべて片付いていて、残っているのはわたしとクチナシだけだった。

「気を遣わせちゃったかな……」

 それにしても、なんて星のいい晩なんだろう。
 シルエットになった梢の上で、煌々と輝く赤い星がアンタレスだと判るまで、わたしはしばし時間を要した。

 と、その真下。石階段に灯影ほかげが瞬く。


 転がるように駆けて来たのは、毬野と啓太郎。

「バカ! 僕らじゃなかったらどうするんだ?! 物音がしたら隠れろって言ってあっただろ?」
 反駁する間もなく、啓太郎が耳元に口を寄せてくる。
「なんだか妙なんだ。さっさと引き上げよう」
 毬野の視線が、周囲を走った。
「行くぞ。忘れ物はないな?」
「うん」
「そっちの灯かりは消せ。僕が先頭をいく。麦、しんがりを頼む」

 訳もわからぬまま、毬野の背中を追いかける。
「ねえ、なにかあったの?」
「何か居るんだ。園内に」
 何か?
「動物……だと思うけど、数が尋常じゃない」


 石階段を駆け上り、木立を縫う。
 獣道を下りた道路の手前で、わたしたちは茂みに身を潜めた。

「眞琴。ほら、あれ」
 毬野に言われるまでもなく、わたしにも見えた。
「なに、これ……ホタル?」
「よく見て、眞琴っちゃん。ほら、動いた――また――あっちでも!」
「ホタルが何者かに追われて動いてるんだ」

 不用意に近づくとホタルはふわりと舞い上がり、少し先まで飛んではまた、羽を休める。
 光の動きは、その様子によく似ていた。
 でも――。

「どうする毬ちゃん? あっちもだ」
 水路への入り口がある駐車場。
 その奥でも、ホタルの光は、ひたひたと揺らめいていた。
「行こう、二人とも。背を低くして、ついてこい」

 茂みから毬野が飛び出した。
 遅れまいと、わたしも後を追う。
 啓太郎が続いた。

 毬野は真っ直ぐ道路を渡り、向かいの斜面を登り始める。
 遊園地の中へ逃れるつもりでいるらしい。


 道路を渡りながら、わたしも左右を――県道へ続く道と、駐車場の方を見やった。
 そのどちらにも、ホタルは群れを成している。丘の斜面に、そして駐車場を囲う雑木林に。

 ……そんなバカな。
 わたしたちは、見られるはずのないものを目にしていた。

 ホタルはもう絶滅を危ぶまれていて、科学館が管理する水場でかろうじて保護されている。
 野生の――こんなホタルの大群なんて、どこにも居ていいはずがない。

 少なくとも、この辺りには。

 何が起こっているのかは、判らない。
 が、だからこそ想定外の出来事に、僕は迷わずプランBを採った。

 眞琴の資料――警備計画に依るならば、園に異常が感知されると、警備は車両で駆け付けて駐車場へ乗り入れ、まずはバラ園の中を探索する。
 素直に往路を戻ろうとすれば、その動線と交錯しかねない。

 車両が駐車場へ入ったのを確かめてから、その裏をかいて遊園地の中へ侵入し、バラ園とは反対にボート池のほとりから水路に戻る――これがプランBだった。


 が、僕らが目にしたのは警備車両のライトではなく、一面のホタルと、それを動かす何者かの影だ。

「警備員が、訓練された犬を放ったのではないか?」
 というのが、麦の見解だった。

 たしかに犬が通ったら、ホタルたちは、あんな感じに動くだろう。

 けれど……。走りながら、僕は考えた。

 眞琴の資料に、そんな記述はなかったし、機械――ドローンみたいな――が使われることはあったとしても、今時、犬なんて使うだろうか?
 なにより、それが道路を駆けてくるのならまだしも、遊園地の法面をゆっくりと登ってくる理由がわからない。

 相手が人でないことだけには、間違いがないだろう。
 さっき見た光の中に、人の持つ灯り――懐中電灯やヘッドランプらしきものは見当たらなかった。
 暗夜の中、僕らだって灯かりなしには行動不能。
 たとえ訓練された警備員だったとしても、その点に変わりはないはずだ。

 暗闇で視界を保つ装置――暗視ゴーグル、なんてものがあることくらいは知っている。
 でも、もし仮にそんなものが使われていたなら、僕らはとっくに見つかっている。

 出頭というか投降というか。
 少なくとも、なんらかの呼びかけくらいは、あったって良さそうなものだ。

 いや、そもそも……。
 あれは、ほんとうにホタル、なんだろうか?

 集団ヒステリー。
 嫌な言葉が、脳裏をよぎった――。

 僕らは今、日常からはかけ離れた行動をとっている。
 バラ園潜入の緊張感から恐慌をきたし、自らが生み出した幻影に追いまわされて、僕らは逃げ惑っているのではないか……。


 チリチリと痛む脇腹に堪えて遊園地を突っ切り、野外ホールを抜けてボート池に至る坂の途中。

 木立の合間からのぞく水面を囲んで、ここにもホタルは群れを成し、揺らめいていた。


 屋外ホールまで引き返し、坂道を登りきると、出し抜けに空が開けた。

 この先に、登る道は、もうない。
 僕たちは、丘の頂――入口広場のはずれにいた。

 ことさら姿勢を低くして、前方をうかがう。

 ここにホタルの気配はない。
 かわりに、身を隠してくれるものももう、何もなかった。


 僕は、最後の手段を選んだ。

 大階段を中ほどまで降りると、残土置場――かつての大プール――へ至る横道がある。
 一昨日、眞琴と遊園地内を探索した。その時と同じ経路だ。

 残土の山陰に身を隠して警備をやり過ごした後、再び駐車場かボート池を目指す。
 限られた時間を無にしてしまうことにはなるが、これが僕らに残された、たった一つの道だった。


「行くぞ。遅れるな」
 姿勢を低くして、先頭を進んだ。
 背中が、冷たい汗で濡れている。

 僕たちを追い立てる、あの光の蠢きの正体は、いったいなんなのか?
 ホタルと小動物だったとしたら、こちらから近づけば逃げ散ってくれるのではなかろうか。
 けれど、どうしてかそれを選択する勇気がわかない。


「ねえ、毬ちゃん」
 眞琴の後ろから、啓太郎が僕に呼びかけた。
「なんか、変だよ。こんなに夜空が暗いなんて」

 確かに。
 啓太郎の言う通りだった。
 僕らの上には、人里離れた山奥か高原――さもなければプラネタリウム――くらいでしかお目にかかれない、そんな星空が広がっていた。


 広場を横切り、大階段に至って、僕は棒立ちになった。
 眞琴も、となりで立ちすくむ。
 啓太郎の喉が、ゴクリっと鳴った。

「これは……いったい」

 大階段から、見下ろせるはずの町並み。
 そこに灯りは、ひとつもなかった。

 満天の星空が接する地平の果てまで闇に沈み、車の往来はおろか街灯ひとつ、信号機すら見当たらない。

 真の暗闇がぽっかりと、大地に口を開けていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?