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【連載小説】Monument 第六章#2

 夜更け待って、僕らは出発した。

 昨夜、眞琴がカーナビにセットしてくれたポイントで、クチナシとともに車を降りる。

 木曜の晩が幸いしたのか、近所の家々にもう灯りはない。
 宵の口の激しい雷雨にさらされて、夜気はしっとり湿気しけり、冷たかった。
 窓は、閉ざされているだろう。ことさら、物音に気を配る必要もなさそうだ。

 僕はクチナシの苗木を背負い、慎重に水路へと降りていった。

 心配なのは水かさだ。
 予想した通り、昨日よりは幾分高く、くるぶしを洗う。
 が、この程度なら、通路へ上がるまでの辛抱だ。

 決行。

 意を固めて水路を進み始めると、思っていたよりかなり遅れて、眞琴の軽のエンジンがかかった。
 路面を咬む車輪の音が、遠ざかる。
 僕が戻らなければ、すぐにその場を離れるよう、言っておいたはずなのに。

 二人とは、後ほど水路の中で合流する手はずだ。

 流れに逆らって水路を進み、昨日と同じく、通路へ上がって階段跡に落ち着いた。
 ろうそくに火を点して、二人の到着まで待つこと、およそ一時間。

 ――ひとりきり。

 ポケットの中で握りしめていたカプセルを取り出して、僕はろうそくの灯りにかざした。

       ◇

 一度だけ、森ノ宮を見舞ったことがある。
 誰も知らない、ぼくだけの秘密だ。

 盆も過ぎて、もう、夏も終わりに近い頃だった。

 眞琴から「面会謝絶」と聴かされていたから日を空けた。
 と、いうのは口実で、正直ぼくは気おくれしていた――彼女を訪ねていくことに。

 勉強で図書室へ通っていたから。
 麦のお父さんのところが、お中元で忙しかったから。
 プール通いが過ぎたのか、喉の調子が変だったから。

 盆が明けると、その口実も――喉を除けば――ぜんぶ尽きた。

 見舞いの品は、どうしたものか――。
 林間学校のお土産は、三人で買ったものだったから、勝手に持ちだす訳にはいかない。


「いらっしゃいませ。なにか、ご用ですか?」
 花屋の店先でまごついていたら、店員さんから声を掛けられた。
「お見舞いの花を……」
「お見舞いはご家族? それとも……」
「同級生です」
「男の子?」
「女です」
 首筋にカッと、熱が走った。
「ご予算は?」
 有り金全部、手のひらに載せて差し出す。
「すいません。これしか持ってません」
 花がこんなに高価だなんて。ぼくは、そのときまで知らずにいた。

「うーん……」
 ショーケースを前に思案顔をした店員さんが、ピンクというには、ややオレンジ色っぽいバラを手に取った。

 一本、二本、三本。

 停まっていた手が、もう一本を、加えた。
 これで予算一杯だ。

 でも、見舞いには縁起が悪いってことくらい、このぼくにだって見当はつく。
 かといって三本では、いかにも貧相だ。
 いっそ、一本のほうが恰好がつくのか。

 言い出そうか、やめようか。
 迷ううち、お店の奥に引っ込んだ店員さんが、もう一輪バラを加えると、泡みたいな白い花がたくさんついた小枝を添えて、ぼくの方へと差し出した。

「これで、いかがですか?」

 きれいにまとまっていた。
 でも……。

「ごめんなさい。お金が……」
「ううん。この一本は、私からの応援――って言いたいんだけど、よく見て。ほら、この一輪だけ、他よりちょっと短いでしょう?」

 店員さんが指したバラの丈だけ、確かに他のより少し短い。

「運んでくる途中で傷んじゃったの。ディスプレイ用にって取っておいたんだけど、これでよければ、おまけします。いかがですか?」


 病院までは、すぐだった。
 深呼吸して、森ノ宮の病室を尋ねる。

「面会謝絶です」


 ……花なんか、持って帰れやしない。

 途方に暮れて、車回しの柱にもたれていたら、
「そこの君、ちょっといい?」
 ケバい女に、声を掛けられた。

「しばらくの間、これ、お願い」
 言うが早いか、女はぼくに、ひょいひょいとおはぎくらいの大きさの玉を押し付ける。
 肌にピリッと痛みがはしった。

 ポロシャツに、しがみついていたのは子猫。

「ここを動かないで。すぐに戻るから。いいわね?! ここにいて!」

 ぼくは、両腕で子猫たちを支えた。
 まだ、眼も開いていない。
 ぼくの服にしがみつき、声を張り上げて鳴き騒ぐ。

 花束と子猫を抱えたぼくを、往来する人が物珍し気に見ては行き過ぎた。


「待たせてごめん」でも、「ありがとう」でもなく、女は戻ってくるなり「ついてきて」と、ぼくの都合なんかお構いなしに、ずんずん前を歩いていく。

「なにぼさっと突っ立ってんの? さっさとして」

 しかたなく後をついていく。
 職員通用口の脇。自販機の隣のベンチに落ちついた。

「この炎天下に、ったく、どういう神経してんだか」

 こいつらは、病院坂下の草むらに、兄弟たちと捨てられていたんだそうだ。

「後始末してくるから。君はこれ、やっといて」

 ミルクの匂いを嗅ぎつけて、猫たちが一斉に騒ぎ始めた。

 どこから持ち出したのかスコップを片手に、女は病院坂を下っていく。
 ぼくは、預かった哺乳瓶を子猫たちの口元へ運んだ。


 女が戻ってきたのは、満腹した三匹が、折り重なって眠り込んだ後だった。

「さんきゅ」
 差し出されたのは缶コーラ。

 女は喉を鳴らして、コーラを盛大あおった。

「ぷはあー! これがビールなら、さしずめ精進落とし、ってとこなんだろうけどね――んっ。君は炭酸、苦手かい?」
「あ、いえ」

 遠慮していただけだ。

「ところでさ。君、お見舞い――だよね?」
 女が横目に、花束を見た。
「……はい」
「オレンジ色のバラだなんて、顔に似合わず大胆じゃないか」
 女はいやらしく舌なめずりをしてみせた。
「さては気になる娘なんだろ? 意気地ねえなあ」
「面会謝絶だったんです――しかたがないでしょう」

 女が真顔に戻った。
「それって――もしかして、森ノ宮香澄?」
 顔色を読まれた。
「そう――か……」
 女は片拳を口元に寄せ、しばし考え込んだ後、コーラを一気に飲み干した。

「わかった。一丁、力になってやるとしようじゃないか」


 そのまましばらく待たされた後、女は小さな看護師さんを連れて戻ってきた。

「ついていきな」
 と、看護師さんを顎で指す。

 別れ際、お礼を言おうとしたぼくの両肩に手を置くと、女は妙に真剣な顔を作って、こう告げた。

「がんばれよ。男だろ。さあ、行きな」


 小さな看護師さんについて歩く。
 丘の影に沈もうとする太陽が、ブラインドの羽根を橙色に染めていた。

 面談室のイスに座らされると、小さな看護師さんは細い腕を大きく胸元に組んで、ぼくを見下ろした。
「ひとつ、教えといたげる。女にはね、いろいろ支度ってもんがあって、すぐには会わせてあげられないの。いいこと? よーく、憶えておきなさい」
 よくわからなかったけど、うなずいておいた。


 陽が丘の端に隠れた頃、看護師さんは無言でぼくを手招くと、廊下を真っ直ぐ進んで、突き当りの病室の前で立ち止まった。

「二度は言わないから、よく聴いて。面会は五分。イスが置いてあるから、そこに腰かけて。そのイスから先には、絶対に行かないこと。いい? 絶対に、よ」
「はい」

 看護師さんがドアをノックして、人ひとり通れる分だけ、戸を開ける。「五分経ったら、知らせるから」
 後ろ手に花束を持つぼくの背を、看護師さんが無言で押した。


 森ノ宮が、いた。

 ベッドのリクライニングに半身を起こして。
 いつもの紺色のカーディガンを羽織って。
 ベッドがやけに、広くみえた。

「ありがとう――来てくれたんだ」
「森ノ宮……」
 喉が掠れて、それっきり。なにを話していいのか、わからなくなった。

「お花、ありがとう。後で看護師さんに生けてもらうから、こっちに見せて」
 花束を両手に持って、目いっぱい彼女の方に伸ばしてみせた。
「きれい――毬野さんが選んでくれたの?」
「えっ……あっ、いや、それは……その」

 ガラガラ声で、花屋での経緯いきさつを聴かせると、彼女はコロコロと笑いながら、咳き込んだ。

「もう、正直なんだから――毬野さんが選んだ。って、言ってくれたら、もっとうれしかったのに」
「……ごめん」
「ううん、ありがと。とってもうれしい。ほんとだよ――どうしたの? その声」

 プールの塩素で爛れたのか、それとも夏風邪でもこじらせたのか。

 彼女はまた、コロコロと笑った。

「たぶん、声変わりだと思うよ。聴けてよかった――大人になった、毬野さんの声」
 そう言うと彼女は開け放たれた窓を向いた。
 ヒグラシが、鳴いていた。

「今日は……」
 森ノ宮が、また咳き込んだ。
「来てくれてありがとう――会えてよかった。眞琴とケイタロさんに、よろしく伝えて」
「うん――また来るよ」
「ううん――もうじき学校でしょう。宿題、終わったの?」
「とっくに。夏休み中、図書室に通ってて。憶えてるかな。騎馬戦のときの紅組の主将。三枝さんっていうんだけど秀才でさ。勉強、教えてもらってるんだ――あのさ、よかったら……」
「ん?」
「よかったら――なんだけど、二学期から放課後、ぼくに勉強、教えてくれないか?」

 遠慮がちに三度、小さくドアが鳴った。

「ごめん。時間みたいだ」
「……うん」
「じゃ、また――今度は学校で」

 花束を、イスの上に置く。

「……待って」
 ベッドの上で、どうした訳か森ノ宮は右手の小指をさすりながら、ぼくを見上げた。

 二回目のノックが、静かに響いた。

「……ごめん――なんでもない」
 森ノ宮は、ぼくと小指とを見比べながら微笑むと、また夕暮れの街に眼を逸らせた。

 廊下から森ノ宮を振り返った。

 静かに閉じていく引き戸が、夕映えに沈んだ森ノ宮と、ぼくとを隔てる。
 刹那、森ノ宮の髪留めが橙色の光を弾いた。

       ◇

 今も、その日の光景が、僕の眼にくっきりと焼き付いて離れてくれない。

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