【連載小説】Monument エピローグ
馨
「今朝は、この秋一番の冷え込みとなりました」
助手席に着くなり、カーラジオがそう告げた。
吐く息は白く、指先は冷たい――そしてまた、車の中も。
シートベルトを留めようとした僕の手に、運転席の眞琴はむっつりと無言のまま、あからさまに身を離した。
……怒って、いるのだ。
こうなってしまうともう、手のつけようがない。
歩み寄ろうにも、話かけるだけ無駄だった。
気まずい沈黙の内に、車はマンションの駐車場から滑り出る。
行き先は、バラ園。
そう。今日からの三日間、僕らは秋の体験ボランティアに参加する。
あの奇妙な一夜の後、僕は退職を決意した。
訊かれて答えた理由だったら、いくつもある。
けれど、ほんとうのところは、ただひとつ。
故郷の町で、暮らしたくなった――と、たったそれだけのことだった。
北海道の短い夏が終わるころ、退職願は受理されて、麦と眞琴にメールを送る。
「無計画! ほんっと、後先なんにも考えてないんだから。どうせ住むとこだってまだなんでしょう? あのさ……もしも……もしも、だよ……ウチ、で良けりゃあ、見つかるまで面倒みるけど?」
電話口で一瞬、唇が固まる。
が、結局、眞琴のその一言で、落ち着き先はひとまず決まり、秋分を過ぎて、僕はこの町に舞い戻った。
そして、ずるずると今日に至っている。
居候、という身分のまま。
「キチンと、しないか?」
そう持ちかけたのは、昨夜のことだ。
「キチンと――って、なにを?」
「僕らのことさ……その――籍を入れる……とか……」
「結婚、ってこと?」
「ああ、いや、その……。うん……」
準備不足。
心構えがなってなかった。
今はまだ、定職にすら就けずにいる身。
分不相応かと回避した単語をぶつけられたくらいで、しどろもどろになってしまう僕も僕ではあったけど。
今朝のベーコンエッグは、黄身がカチカチ。縁まで真っ黒焦げのカリカリだった。
何をそんなに怒っている?
運転席側のドアに寄りかかり、眞琴は片手ハンドルで、乱暴に県道へと折れた。
アクセルを踏み込んだところへ、折り悪く信号が変わる。
急ブレーキでつんのめった車体が元に戻ると、僕らはあの、二十三番の橋脚の手前で停まっていた。
遊園地と駅。
双方から始まった軌道の撤去工事は、順調に進んでいるらしい。
あと少しで、二十三番に達しようとしている。
横目にうかがうと、眞琴も橋脚を眺めていた。
もうじき、この風景とも別れを告げることになる。
フロントガラス越し、秋の空を映して潤みかけていた眞琴の瞳。
それが、僕に向くなり険しく尖った。
「なにか用っ?!」
「え? ――あ、いや。なんでも……」
「だったらこっち見ないで! 前、向いてて」
はいはい。仰せのままに。
信号が青に変わった。
急発進にタイヤが鳴る。
やれやれ――だ。
どう、ご機嫌をとったものだろう。
眞琴
昨夜のプロポーズ――らしきもの、とでもしておこう――に、有り体に言えばわたしは、へそを曲げていた。
いくらなんでも、電気ホタルのハンダをしながら、するような話ではないだろう。
「あのさ――わたし、バツ一個、付いてんだ。黙ってて、ごめん」
「……どこに?」
言ったわたしがバカだった。
そう。こいつは、そういうやつなのだ。
が、よもやこれほどだったとは……。
わたしは、掛け布団を引っ張ってくると、リビングで一夜を明かした。
おかげで今朝は、ちょっぴり鼻がグズついている。
けれど、わたしは寛大だ。
リターンマッチのチャンスをやろう。
お昼休み。
まずは、香澄のクチナシにお参りをする。
黄金色の実が、そこかしこに生っていた。
これを使って、この年の暮れ、香澄のお母さんがこしらえてくれた、あの甘酸っぱい栗きんとんにチャレンジする。
わたしの密かな目標だ。
毬野と二人、石階段から木立を抜け、道を渡って斜面に取り付く。
灌木を抜けて、遊園地へ入った。
場所は、そう――花時計の前がいい。
時計の針は、今日も永遠の二時一分前を指し、秋の陽を鈍く照り返す。
誰も手入れする者のない花壇には、いつの間にか三色のコスモスが一面、花の盛りを迎えていた。
「昨日の話、なんだけど、指輪くれたら考えてあげる」
「わかった。今日の夕方、見に行こう」
「違うよ。そのポケットの中のがほしいの――今、すぐに」
「これは……」
毬野は素直に、ポケットから指輪のカプセルを取り出した。
「おもちゃ――だぞ?」
「いいの、それで。――はい」
わたしは軍手を外すと、毬野の前に左手を突き出す。
毬野が、わたしの手を取った。
指先に、触れた指輪がこそばゆい。
そのままゆっくり、指輪が沈む。
「どう?」
顔の隣に指輪を並べる。
「どう――って……。ほんとうにそんなのでいいのか?」
「もちろん!」
と、応えた途端に、指輪がピシリ。
指の付け根で、感触がなくなる。
見ると、一筋、小さなヒビ入っていた。
「ほら見ろ。古いものだから……」
「――えっ?」
わたしたち二人の目の前で、ヒビは見る間に広がっていく。
それは緑色の宝石まで呑み込むと、音もなく静かに砕けて散った。
塵は一筋の煙になって、秋の風に運ばれていく――花時計に咲く、三色のコスモスの中へ。
その花の隙間に、ほんの一瞬。
左目の下に指をあて、「あっかんべー」をする香澄の姿。
毬野と顔を見合わせる。
花時計に向き直るともう、彼女の姿は消え失せて、代わりに一羽。
小鳥が天高く飛び去った。
吹き出すわたしに、毬野がつられる。
毬野の吐息が、前髪を揺らした。
「毬野、じゃんけん! 最初はグー。じゃんけん、ぽんっ!」
わたしがチョキで、毬野がパー。
「チ、ヨ、コ、レ、イ、ト! と」
わたしは、一段飛ばしに階段を上る。
「なんだよ、いきなり?!」
「いいからほら、もう一度。最初はグー――」
二連勝。
「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル!」
駆ける登る階段の上、遥か。
晩秋の高い空には、くっきり一筋、飛行機雲。
わたしは三度目の勝負に身構えた。
「どうした? がんばらないと置いてっちゃうぞ!」
先のことなど、わかりはしない。
でも、明日を想像するわたしの胸は、ほんのちょっぴり――いや、ほんとはすごく、わくわくしている。
( 了 )
(参考文献)
宮沢賢治 『新編 銀河鉄道の夜』 新潮社版 4192
平成二十四年六月十日 六十刷 新潮文庫 み―2―5(新潮社)
皆さま。
拙作『Monument』を最後までご覧頂き、誠にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
川良部逸太
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