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【連載小説】Monument 第七章#1

眞琴

「もうじきだよ――眞琴っちゃん――あと少し」
 前を行く啓太郎が、呼吸の合間にわたしを気遣う。
「――うん」
 とだけ返すのが、精一杯になった。

 急な登りを終えると水路は次第に浅くなり、もうわたしですら、ひざを屈めなければ歩けない。
 狭苦しい通路の中、ちょっぴり酸欠気味なのか、頭の芯がぼおっとなる。

「ついたぞ」
 先頭の毬野が、足下を照らす赤いランタンを消した。
 啓太郎が、背負ってきてくれたクチナシが、わたしの目の前、水路の床に降ろされる。

 暗闇に目が慣れてくると、二人の頭の少し先で、天井から淡い光が漏れていた。

 啓太郎の背中の向こうで、毬野がしきりに動いている。
 そのガサゴソした気配が止んだ。

 啓太郎の腰が浮く。

「一、二ぃ―のぉ――」
 三で、二人は光の漏れ込む天井を持ち上げた。
 新鮮な空気が、どっと流れ込んでくる――心地よい草花の香りといっしょに。

 啓太郎が立ち上がり、水路の外に頭を出した。
「オーケー、毬ちゃん」
「ん、ほら」
「サンキュ」
 一度、弾みを付けて、啓太郎が、するりと地上に抜け出した。

 降ろしていったクチナシの鉢を挟んで、手を踏み台の形に組んだまま、天を――啓太郎が上がっていった地上を――毬野が睨む。
 さっきのは狭い水路の中、四苦八苦しながら方向を変える音だったようだ。

「大丈夫。問題なし」
 天井に開いたグレーチングの隙間から、啓太郎の腕が、ぬっと現れ、親指を立てた。

「よし。クチナシからだ。用意はいいな?」

 突き出た腕が、親指と人差し指で輪を作る。

 わたしが押して、毬野は引っ張って、クチナシの苗木を開口部の真下まで移動した。
 毬野が、啓太郎の手首を取って、背負子に繋がる紐を握らせる。
 苗木が水路の底を離れた。
 花芽を痛めてしまわぬように、わたしと毬野で根元を支え、啓太郎がゆっくりと引き上げていく。
 闇の中、毬野の顎に汗が光った。

「つぎは、おまえだ」
「うん。ごめん」
 毬野の両手を踏み台に、勢いをつけて飛び上がる。
 啓太郎に援けられて、なんとかかんとか這い出せた。

「少し休んでから、ゆっくりと立ち上がれ。水路のコンクリの上以外、手も足も降ろすなよ」
 グレーチングの隙間から、矢継ぎ早な毬野の声がエコーする。

 言われなくても――。
 深呼吸に、バラの香りの味がした。
 闇でバランスを惑わされぬように、慎重に立ち上がり辺りを眺める。

 目の前の雑木林の陰に、バラ園が沈んでいた。

「ほら、こっからは、背負っていくんでしょ?」
 啓太郎が、クチナシのハーネスをわたしに向けた。
 両腕を通す。
 それはさっきより、心持重みを増して、ずっしりと肩に載っかった。

 啓太郎が手を貸して、毬野を水路から引き上げる。
 二人がグレーチングを元に戻した。

 例のランタンが、毬野から啓太郎に、啓太郎からわたしに手渡される。

 そう。ここからは、わたしが先頭だ。

 ランタンのスイッチを押す。
 思わぬ明るさに、慌てて灯りを絞り、調節する。
 傘の下で小さくなった灯かりが、バラ園へと連なる水路のコンクリートを赤く照らした。

「行くよ」

 無言のまま点頭する二人を背に、水路の蓋の上を歩き出す。
 周囲を圧する闇の中、ちいさく赤いともしびだけが、わたしたちの行く手を照らしていた。

 一列に水路の上を往き、駐車場から県道へと連なるアスファルトの道を踏む。
 途中、左へ折れて木立の間を――獣道を――抜けて、木製の土留階段を上りきり、バラ園の石階段の上にでた。

 眞琴の手招きに従い、階段の隅に身を寄せる。
 呼吸が荒い――眞琴も、麦もだ。
 少し息を整えたほうがいいだろう。

 ぶっきらぼうに断ち切られた石組みと、転落防止の簡易フェンス。
 その隙間から、今さっき歩いてきたアスファルトの道が見通せた。

 光が漏れてしまわぬように、手庇で覆って腕時計の発光ボタンを押す――ここまでは順調だ。

「啓太郎は、ここで道路の見張り。いい?」
「うん。わかった」
「警備が来るとしたら、必ずこの道を登ってくる。頼んだぞ、麦」

 眞琴が大きく息継ぎをする。
「毬野。わたしと一緒に」
 しっかりと頷き返した。
「ああ――行って来る。頼んだぞ、麦」
「作業が済んだら、すぐ戻ってくるから。ここ、お願いね。啓太郎」


 眞琴に続いて石階段を降りた。
 管理棟の前を通り抜け、雑木林に沿って小道を往く。
 温室を過ぎたところで眞琴と別れ、用具倉庫へ向かった。

 足元の土は雨に濡れて柔らかい。
 足跡は残ってしまうだろうが、僕らが履いている長靴は、ボランティアで使っているものと同じだ。
 誰も侵入者が付けたものとは思うまい。

 倉庫に鍵は、掛かっていない。
 道具は目立たぬよう片隅にまとめ、ベニヤ板の切れ端で隠しておいた。

 スコップと、バケツに入れた移植ゴテに、ガーデンレーキ。
 まず、用事があるのは、こいつらだ。

 左手にスコップ、右手にバケツをつかんで、眞琴の元へ向かう。


 現場に着くと、もうクチナシの開梱は済んでいた。

 眞琴と場所を確かめ合って、スコップの先端を土に当てがい、じわりっ、と足を載せて踏み込んでみる。
 ――思っていたより、感触が固い。
 連日の夕立で、土が締まってしまったか。

 一回、二回、三回……。

 繰り返すうち、それでも穴は広がっていく。

 十遍ほど土を掻き出したところで、眞琴が苗木をあてがった。

 残りは、移植ゴテの方が早そうだ。

「後はわたしが。毬野、水、お願い」

 スコップ片手に用具倉庫へ取って返し、今度はポリタンクを持ち出すと水場へ向かう。
 水を溜める間にスコップを洗って、倉庫へ戻した。

 腕時計を確かめる
 計画は十分弱遅れていたが、想定の誤差の範囲内。

「大丈夫。順調だ」
 自分に、そう言い聞かせながら、僕は水場へと引き返した。

眞琴

 毬野が運んできてくれた水を回すと、根の周囲に丸く窪みができた。
 土は入念に詰め込んだおいたはずなのに。

 毬野に苗木を支えてもらい、土を両手でかき集めて、もう一度、しっかり

 苗木の移植だったら、ボランティアでも手伝ったことはある。
 なのに、やはり暗いところでは勝手が違うものらしい。


 三度、同じことを繰り返して、ようやく土がしっかりと苗木を支えた。

 残土を、移植ゴテでバケツに集める。

 それを毬野が、雑木林に撒いてくる間に、わたしはガーデンレーキで辺りを均した。

 痕跡は、残したくない。
 が、ランタンの低い明かりのせいもあってか、なんどレーキで掻いてみても、土跡の凹凸が不自然に残る。

 手箒で丹念に残土を集め、クチナシの根元に押し込める。
 根元にくっきりと浮かんだ手形が、やけに大きく見えた。
 手のひらで地面を撫でて適当に乱し、ランタンの明かりでもう一度、周囲を確かめる。

 土跡は一応、落ちついて見えた。


 わたしの目の前に、苗木はしっかりと天を向いて立っていた。

 終わった――終わったんだ。
 こんなにも、あっけなく。

 わたしはクチナシを前に、両ひざをついた。
 大きく膨らんだつぼみが一つ、夜風に吹かれて揺れている。
 土で汚れた軍手を外し、両手を合わせて目を瞑った。

 あと数日で、白く儚い花が綻ぶ。
 そして優雅に甘く、優しい香りを辺りに漂わせることだろう。
 盛りをすぎたバラ園の片隅で、ひっそりと――誰ひとりとして、知る人なく。

 振り仰いだ空には、無数の星が瞬いていた。
 こんなにも星の美しい晩があったのか――この町にも。

 星が、滲んだ。
 首筋を、熱いものが伝った。

 ずっと、わたしの心を占めていたもの。
 それが夜空に、解き放たれた。

 土を捨てて戻ると、眞琴は天を仰いで、クチナシを前に跪いていた。
 その瞳に星影が宿ると、ゆっくりと膨らみ、そして流れた。

 ひめやかな嗚咽。
 溢れ出したそれは、やがて号泣へとかわった。

 僕にできそうなことは――もう、なにもなかった。


 バケツの中に道具を集め、ランタンで地面を確かめる。

 痕跡は、丁寧に消してあった。

 道具から土を洗い落として倉庫に戻し、石階段を登り切ったところで、耳をすませた。

 物音は、ない。


「麦、待たせたな。様子はどうだ?」
「ん。異常なし。早かったね」
律儀に道路を向いたまま、麦が続けた。
「眞琴っちゃんは?」
「――うん。しばらく、一人にしてやろう――と思って」
「――そっか」

 予定外の行動だったが、麦には一言、それだけで通じた。

 なんの物音も聞こえてこない。

 虫の音も。
 鳥の声も。
 街のざわめきさえも。

「――毬ちゃん」
「ん?」
 目の端が、かすかな光を捉えた。
 ――まただ。
 ――もう一度。

「毬ちゃん、これって……」
「――ホタル?」


 ホタルの発光のピークは、一晩に三度ある。
 その最後の時間帯に、さしかかろうとしているらしい。

 それにしても、こんなところに、なぜ?
 ――いや。人間が放棄した、遊園地の中。だからこそ、というべきか。

 光は明滅しながら同調し、その数を増していく。
 しばし、時を忘れて見入ってしまった。

 だからこそ、気がついた。

「――麦?!」
「なんだろう。あれ?」

 動いている。
 ホタルの光が。
 細波を描いて。

 あちらでも、こちらでも。
 ――打ち寄せて来る。僕らのいる、丘に向かって。

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