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(長めの批評)ヘレディタリー/継承 偽られた悲劇

(だいぶ前に書いた批評?的なもの。出す機会なさそうだから供養。)


『ヘレディタリー/継承』(以下《ヘレディタリー』)についてのある感想ツイートを目撃し、ことを荒立てたくもないので内容はすこしぼかすが、それを見た私は「誤解」だと思った。他にも同様の感想をいくつか見て、同じような誤解もとい誤読をしているように感じたので、訂正しておきたいと思ってこの文章を書くことにした。また書いてみて監督アリアスターに定着してしまったイメージ(それは監督自身のインタビューなどにおけるパフォーマンスによる部分も大きい)に対する検討も兼ねられた文章になったように感じる。

つまり、『ヘレディタリー』が「母という存在に対する不信感を露わにした女性嫌悪的な話」だというのは読み違いをしていると思う。この作品はむしろ実は母のほうがマトモだというふうに描かれている。映画内の人物がマトモかどうかはあくまで映画世界の現実を正しく認識できているか否かで決定される。考えてもみてほしいが、例えばチャッキー人形の異常性に気づいているアンディは異常だろうか。むしろおかしいのは耳を貸さない周囲の人間のほうなのは自明ではないか。

父や息子は母の奇行を単なる彼女の精神的な疾患からくるものだと思っているが、オカルティックな悪魔崇拝の儀式は映画内では「実際にある」わけだから、おかしいのは当然それを信じない父や息子ということになる。繰り返し「私を信じて!」と嘆願する母を信じない男たちに用意された結末は本人たちにとっては意味不明であるところの「唐突の死」だ。
先ほど「自明」だと言ったばかりで申し訳ないが、実際はここではいささか込み入った操作がなされている。要するに「観客が異常だと思うように見せられていたもの(母親)が、実は正常なのものとして描かれている」という観客の認識に対してしかけられている一瞬のメタフィクショナルな転倒だ。すると「観客が今まで実人生で正常だと思っていた価値観=映画内の異常」という隠された図式がゆさぶりとして浮き上がってくる。ここで言う観客の価値観のひとつは、例えば従来の映画が繰り返し描いてきた「ヒステリックな母親」像を自然と「異常」側と見做してしまう観客の固定観念のことで、ホラーというジャンル自体にこれまたメタにしかけられた価値転倒にもなっている。
これは同監督作品ミッドサマーでよりわかりやすく打ち出された「しかけ」で、これを分からずに見てもエンタメとして楽しめるのだが、それだと最後の王冠を被せられるシーンの意味が単なる不可解なまでに尻切れのダークエンドに映ってしまう。



もし男たちが母の言うことを素直に聞き入れ対処していたら、運命は回避できたかもしれない。いや、おそらく回避できなかった。なぜならあの映画では悲劇性が繰り返し強調されているからだ。
例えば息子の受けている授業では「悲劇」について取り扱っている。そこで先生が「選択肢が多ければ悲劇性は高まるか? 低くなるか?」と質問し、ある男子生徒が「低くなる」と答える。理由を聞かれ生徒はふざけて「そうだから」と答えるが、選択肢の狭さがある運命を悲劇という単一の結末に収斂させると考えるのは一般的な思考なのでこの回答におかしなところはない。しかし次に発言する女子生徒は「私はより悲劇的だと思います」と言い、理由を述べる。「避けられない運命なら絶望的な仕組みの中の駒でしかない」この部分で息子であるピーターの顔にカメラがズームインしていく。つまりこの映画でピーターを襲う悲劇はどんなに他の選択肢を考慮しても避けがたい「運命」であると言いたいわけである。
ついでに言うとその前に教師と生徒の間で次のようなやりとりがある。

「ヘラクレスの致命的な欠陥は?」
「傲慢さ」
「理由は?」
「彼に対してあらわれるすべての兆候を認めるのを拒むから」
「面白い。ヘラクレスは支配できると考えている」

これはそのまま映画内での男たちのことを言っているように聞こえる。男たちの致命的な欠陥は「あらわれるすべての兆候を認めるのを拒む」こと、つまり様々な不信を見て見ぬふりをしてきたということだ。この不信というのはオカルティックな事象というふうにも受け取れるし、家庭におとずれる危機とも受け取れる。いずれにせよ男たちはいつでも無関心だったというわけだ。
しかしおそらく同時に、ヘラクレスは母親の姿でもあるのだ。後でまた語ることになるが、自分に内在する罪を認められないことに母であるアニーは苦悩している。それは作中に登場するどの男よりもヒロイックな苦悩だ。



町山智浩が登壇した『ヘレディタリー』のトークイベントでアリアスター監督は影響を受けた作品にロバート・レッドフォード監督の『普通の人々』を挙げ、町山智浩はこの映画について以下のようにまとめている。「『でもやっぱりお母さんは僕を愛しているはずだ』と、母に抱きついてキスする。ですが母は、気持ち悪いという顔で家を出てしまう。恐ろしい映画です。母親が息子を拒否するというのは、映画でもめったに描かれない。アリスター監督はそれにショックを受けて、この映画のなかで彼なりに再現している」

母親からの拒絶は一見『ヘレディタリー』にも順当に受け継がれたテーマであるようにみえるが、実は全くの逆で、『ヘレディタリー』の母親は息子を「愛し」続ける。

まだ物語の序章。祖母の葬儀の後「愛する人の喪失」という名前のグループ・カウンセリングで、自分の生い立ちとともにすべてが崩壊してしまったと語る母親は「I am to blame(私に責任がある)」と言う。そして「私に責任がなくても」「I am blamed(私は責められている)」と続ける。
「なにを責められていると思うんです?」という質問には「分からない」と答える。
ここではblameの「責任」と「非難」という両義性を使って畳語法的に話が展開される。

次にこの「blame」という単語が登場するのは兄の運転する車で妹が死んだ後、例のグループ・カウンセリングに同席していたというジョーンという女性の家でのシーンだ。
最初は娘の死によって受けたショックを語っていた母だったが、次第に自身の「夢遊病」についての話題に移っていく。夢遊病のせいで家に火をつけてしまった「息子は私を責めて(blame)いる」と言う。「でも私はなにも言い訳できない」
このシーンを最初見たときなんとなく違和感があった。ここまで普通に映画を視聴していると、大抵の視聴者は兄の妹を死なせてしまったというトラウマ級の罪悪感と同調しているはずだ。なのに母は息子ではなく自分が責められていると嘆くのだ。それは息子のセリフだろうというのがこの違和感の正体だ。

この「blame」をめぐる二義性の終着点は悲劇だった。
ジョーンの家から帰宅した夕食の場面。テーブルには父親の作った料理が並んでいる。
「すごくおいしい」と言う息子。それに父は「ありがとう」と応じる。母は息を伴った微笑を浮かべる。ここでの笑みの意味もまた多義的だ。ともすれば失笑・苦笑の類に見えるが、よく見てみると単なる微笑みにも見える。

息子「大丈夫? 母さん」
母「なにが?」
息子「なにかあるの?」
母「なにかあるわけ?」
息子「もしかして…なにか言いたいのかと」
母「例えば? バカにされるのを承知で
何か言うと思う?」
息子「バカになんかしない」

ここでもまた母は「自分が」バカにされることを恐れている。一方息子の方は自責の念に駆られ、母の口から出るはずの叱責を待っているようにみえる。

押し問答の末ついには怒鳴り合いになる。
「言えよ チクショー!」
「口を慎んで クソガキ! 母親に向かってどなるんじゃない!」「あんたの妹は死んだ。悲しいだろうし 事故だし 苦しんでるはず 助けてやりたい あんたのしたことの記憶を消してやりたい でも妹は死んだのよ!」「せめて家族の絆が深まるとか あんたが謝罪し事実と向き合うとか それならなんとかなる でもあんたは責任を取れない!」「誰も自分がしたことを認めないから!」

ここでついに「責任」という言葉が出てきた。しかし注意深く聞いてみると「blame」とは発音していない。代わりに「responsibility」と言っているように聞こえる。

英語のことはとんと分からない筆者だが、単純に考えても「blame」にあるような「責苦」のイメージが「responsible」にはないように思える。

Googleで「responsible」について調べててみると以下のような意味が含まれていることがわかった。


〈人・行為などが〉責任能力がある(解説的語義)義務を遂行できる,信頼できる,分別ある,きちんとした(reliable);〔限定〕((米))債務の支払い[返済]能力がある

〔叙述〕〈実務遂行者などが〉説明責任がある(解説的語義)
(管理・監督者に対して)報告義務がある≪to≫,(職務などを)説明する義務を負う≪for≫


筆者の英語力が低いばかりにここにきて論拠があやふやになってしまうのは心苦しいが、見た限り「responsible」には「義務」や「信頼」のニュアンスがあるようだとわかる。また「説明責任」という言葉も出てくる。

つまりここからなにが言えるかと言うと、母が息子に求めている「責任」は家族に対する「説明責任」のようなもので、「blame(責め)」たいわけではないのだ。母が「blame」を使う対象は専ら自分に対してだけで、息子にはあくまで家族としての「responsible(義務)」を果たして欲しいと考えているに過ぎない。その証拠に母は「事故」であることを認めている。「事故だし 苦しんでるはず 助けてやりたい」母は息子を愛しているのだ。「誰も自分がしたことを認めないから!」ここで主語が「誰も」になるのは、自分を含め家族全員がということだろう。「誰も」家族としての「responsible(義務)」を果たそうとしない。そしてその責任が最も強い形で向けられているのは、母である自分自身に対してなのだ。

息子も母親もお互いに責められていると感じている一方でお互い相手のことを責めてなどいない。(息子の「大丈夫? 母さん」という言葉もまた本心からの心配だろう。)ここにきて悲劇は単なる誤解の集積であることがわかり、アリ・アスターにまとわりつく「家族嫌悪」のイメージの裏に隠された一種楽観的にさえ見える「家族愛」の側面が露わになる。『ヘレディタリー』は「母という存在に対する不信感を露わにした女性嫌悪的な話」でもなんでもなく、むしろ母という存在に抱いたマザー・コンプレックスな信頼感を頼りにした、家族愛の物語なのである。それは別の意味で性役割的・女性蔑視的かもしれないが(アリ・アスターがそのことに気づかないとは考えにくい)、母を「異常」その他男性を「正常」とみなすような対立は、本作ではむしろ巧妙なミスリードとして機能している。

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