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手段が目的になってしまう事の代表例は宿題だと思う。

事実上活動を始めて一発目の記事なので、まずは学生っぽいことを書いていこうと思う。


私は昔から宿題というものが嫌いだ。

小学生の頃から毎日の宿題である漢字の書き取りをサボっては怒られ、塾の宿題もサボっては怒られてきた。

高校は通信制のところに入ったので、宿題とは無縁というか宿題しかないというかな状態だが、それでも宿題という物は未だに大嫌いである。


そもそも私が宿題をサボっていたというのは、面倒くさかったからというわけではない
いや、もちろん面倒くさかったというのはあるのだが、それ以上に手間と対価があまりにも釣り合っていないと思ったのだ。

漢字の書き取りの宿題を毎日30分近くかけてやったとして、覚えられる漢字は1日4個程度。
これなら自発的に30分間自分の方法で勉強した方が、最低でも倍以上の漢字を覚えられると思う。
塾の宿題に至っても、毎日コツコツ時間をかけてやるよりかは、定期テスト前にノートを見返して、そのテストの復習をしっかりやった方がよっぽど効率良く学べる。

そして、そのように勉強をして、テストでいい点を取っても褒めてもらえない上、普段は宿題をやっていなくて怒られるのだ。
塾のテストで校内順位が1位で偏差値が60以上余裕であったとしてもだ。

まあ、確かに言われたことをやっていないのは悪い。
ただ、しっかりと結果を出しているのならば全く問題ないと、子供ながらに思うのだ。


宿題というのは何のためにやっているのだろうか。

上で結果を出していればと書いたが、その結果を出していると判断するためにはこれについて明確にしなければならない。

宿題の目的としては概ね2つあると考えている。
1つ目は、授業でやった内容などの記憶の定着。
2つ目は、日々勉強をする習慣付け。
塾の宿題などは1つ目の意味合いが強く、学校の宿題は2つ目の意味合いが強いように思う。

宿題とは、この目的を達成するための手段に他ならないのだ。

そうだとすると、1つ目の目的ならば勉強ができる人間は宿題なんてやらなくても良いし、2つ目の目的ならばそもそも言われたことをただやるだけのものを勉強というのはあまりにも間違っている。
むしろ、自分なりのやり方を考えてそれを実践しているのなら褒められるべきものだと思う。

しかし実際は、宿題をやっていないと、テストでいい点を取っても、毎日勉強していても、ほぼ例外なく怒られるのだ
目的を達成していても、その手段が宿題でないと怒られる


これは、まさに手段が目的になってしまっている。


宿題をやらせて上で挙げたような目的を達成させるためのだったはずなのに、いつの間にか宿題をやらせることが目的になって、それに固執するようになってしまっている。

もちろん全員強制的にやらせた方が効率はいいし、目的の部分が達成できていない人については強制的にやらせなければならないのは分かる。
だが、だからと言って無意味なものに時間を払わないと怒られるというのはあまりにも理不尽だと思うのだ。


これからも宿題という文化は無くならないだろうが、もう少しくらいは手段が自由になって、目的を達成している人間はもう少し楽に生きられるような未来を願っている。

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