実話怪談 ◆ 死神

 健康器具を販売する企業に勤める吉田さんから聞いた話である。
 彼は大の落語好きで、休日のほとんどはサブスクリプションのストリーミングサービスを使い、好きな噺家の落語を聴いてひがな一日過ごしている。
 その日も彼はいつものように落語を聴きながら、まだ陽も高いうちからベッドで横になっていた。
 開け放した窓から吹き込んでくる微風で、レースのカーテンがふわりふわりと波を打つ。すぐ側を通る国道は、車が行き交う走行音でいつも通り賑やかだ。野鳥の鳴き声と、蝉の合唱をBgmに、心地よい時を過ごしていた。
 名人による長尺の演目が数本スマホから流れる。
 そして、吉田さんが一番好きな「死神」が始まった。
 だが、心地よく名人芸を楽しんでいたつもりが、いつしか眠りに就く。
 いくつかの夢をオムニバス形式の作品のように連続して見たことは記憶に残っている。
 あまり良い夢ではなく、始終あった圧迫感が緩やかに消えると共に目が覚めた。
 が、身体が動かない。
 またか。こういうことには慣れっこだ。
 そのうち必ず覚醒する。
 そう思ったのだが、同時に何とも言い表せない嫌な感覚を覚えた。
 目を閉じたまま戸惑っていると、四肢を四方バラバラの方向に引っ張られ始めた。
 それぞれ引っ張る力、引っ張る強さ、握ってくる手の大小全てが異なっている。
 次に、間近で子供の火がついたような泣き声が響く。 
 駄々をこねたりぐずっているような泣き方ではなかった。嫌悪と怒りが混じったような、そしてその感情を吐き出すために絶叫しているような、叫びに近い泣き声だった。
泣き声は少しずつ、でも確実に激しさを増していく。
突如陥った理解し難い状況から脱しようと、吉田さんは息を整えようとした。
 が……整わない。必死の浅い呼吸が更に焦りを増幅させる。
 その間も、子供は泣き叫び手足は引っ張られ続ける。握る力はどんどんと増し、痛みまで感じ始める。
 必死に声を出そうとするが叶わない。
(危ないと思ったら、とにかくこれを唱えなさい)
 吉田さんは人生の中で 二度、不動明王のマントラの強さについて聞かされていた。
 一度目は小学生の頃に出会ったお婆さんから。
 二度目は大学の教授から。
 不動明王のマントラ。
 暗唱できる。
 ナウマク サンマンダ バザラダン カン
 印を結ぶ自分と文言を繰り返しイメージする。
 ナウマク サンマンダ バザラダン カン!
(もし解決出来なかったら、マントラの後に九字を切って、それを繰り返し続けなさい)
 マントラを教えられたと同時に「九字を切る」事で身を守れるのだと教わっていた吉田さんは、マントラと同じ要領でイメージする。
 臨! 臨 兵 臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在 前!
 九字を切って払う。
 マントラと九字を何度も何度も繰り返し脳裏に浮かべた。
 そして何十回目かの九字を切ったとき、
 トラックのクラクションが、
「ぱあーーーーッ!!」
 と鳴り響いた。

 気づけば、視界に広がるのは夕焼けに染まった見慣れた寝室の天井だった。窓の外からはすぐそばを走る国道の車の走行音や蝉の鳴き声がなだれ込んできていた。
 彼は自分のベッドの上で、仰向けになり、両手は胸に乗せた状態で、覚醒した。
 心臓が早鐘を打つ。枕元のスマートフォンからは、死神のラストシーンが流れていた。
 「消えるぞ…消えるぞ…ほ〜ら………消えた………」

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