アナログ派の愉しみ/映画◎カン・ジェギュ監督『シュリ』

50年騙されれば
もう十分だ


「いま目の前で金遣いの荒い酔っ払いがバカ騒ぎをしているよ。北の兄弟は餓死しているというのに、ここじゃゲロを吐いていやがる。まったく不公平な世の中じゃないか」

 
カン・ジェギュ監督の『シュリ』(1999年)のなかのセリフだ。わたしだけではないだろう、まだ「韓流」という言葉もなかったころ、この作品によって韓国映画の途方もない可能性を思い知らされることになったのは。ふんだんに軍用車両や銃火器を投入したアクションあり、ひたすら涙腺を刺激するメロドラマあり、その間には軽妙なウィットとユーモアがちりばめられ……と、まるでエンタメ画のデパートのような賑々しさはいま観ても感心してしまう。だが、それら以上に度肝を抜かれたのは、ドラマの道具立てにあえて朝鮮半島の南北分断という最もシリアスな政治問題を持ち込んできたことだ。冒頭のセリフもそこから発せられたものに他ならない。

 
こんなストーリーだ。北朝鮮の特殊軍団の苛烈な訓練で殺人ロボットに仕立てあげられた少女が韓国に潜入して、6年が経った。この間に、彼女は政府・軍部の要人をつぎつぎと暗殺し、韓国当局の懸命な追跡を尻目に正体を掴ませず、現在は鑑賞魚ショップのオーナーのイ・ミョンヒョン(キム・ユンジン)として秘密情報機関のユ・ジュンウォン(ハン・ソッキュ)に接近していた。もちろん諜報活動の一環だったが、韓国で送る歳月のあいだに少女から女性へと成長したいま、いつしか相手を本気で愛するようになっていた。そこへいよいよ大規模なテロを実行するべく、北朝鮮から特殊軍団のリーダーのパク・ムヨン(チェ・ミンシク)も5人の部下とともにソウルに入り、強力な新型爆弾を奪取すると、かねてライバル関係にあったジュンウォンに挑発の電話をかけて口にしたのが、先に引用したセリフなのだ。

 
当時の韓国は金大中(キム・デジュン)大統領の政権下で、民主化・自由化の機運が高まっていたとはいえ、極度の食糧難に苦しむ北朝鮮から飽食の韓国に向けて放たれたこうした言葉を、映画館の観客たちは果たしてどのように受け止めたのだろうか?

 
それどころではない。ストーリーはさらにとんでもない方向に進んでいく。そのころ、FIFAワールドカップの日韓共催(2002年)を目前にして、サッカー熱が燃えさかるなか、映画では韓国・北朝鮮の合同チーム結成をめざしてソウルで親善試合が行われ、韓国大統領と北朝鮮国家主席のトップが揃って観戦するという設定になっている。そして、あろうことか、北朝鮮の特殊軍団はそのスタジアムに新型爆弾を仕掛け、サッカー選手と大観衆もろとも両国首脳も吹き飛ばすという計画で、行く手に立ちはだかるジュンウォンに対して、パク・ムヨンは行動の理由をつぎのように告げた。

 
「われわれは立派な政治屋どもを信じて50年待った。だが、いまこの瞬間にも北の人民たちは飢えと病で道端に倒れて死んでいく。そして、木の皮や草の根でも足りずに土まで食っている人民の息子や娘が国境の先の売春宿にたった100ドルで犬のように売られていくんだ。餓死したわが子の肉を食う母親と父親を見たことがあるか? ハンバーガーとコーラで育った連中にはわかるまい。サッカーで南北がひとつに? ふざけるな。50年騙されればもう十分だ。朝鮮の新しい歴史はわれわれの手で開く」

 
テロリストが喝破したとおり、スポーツはしばしば国際政治の不毛を隠蔽する仮面でしかない。その虚飾を剥ぎ取って朝鮮半島を大混乱に陥れ、血みどろの葛藤から南北統一を現実のものにしようというのだ。その破天荒なヴィジョンがあえなく崩れ去っていくプロセスはことさら説明するまでもないだろう。ジュンウォンはパク・ムヨンの裏をかいてぎりぎりのタイミングで新型爆弾の無効化に成功したのち、ついで貴賓席から逃げだした両国首脳を仕留めるためにライフルを構えたミョンヒョンのもとへ駆けつけて銃撃し、ふたりは涙ながらに仇敵としての結末を迎える。あとになって判明するのだ、ミョンヒョンはジュンウォンの子を宿していたことが……。

 
タイトルのシュリとは朝鮮半島に生息する固有種の淡水魚で、国境を超えて同胞が和解することのシンボルだという。だが、映画は世界的なヒットを記録したものの、四半世紀を経過した現在に至るまで南北統一が実現する気配はなく、むしろそうした分断国家の状況もひとつの資産として取り込んで空前の「韓流」ブームを巻き起こしたのは、歴史の皮肉な逆説と見なすべきだろうか?
 

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